「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用(三)」

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
   《天保の工事以降の印旛沼開発の動向》
  1 明治・大正・昭和(第2次世界大戦終戦まで)時代
 江戸時代は、天保の工事以降の工事再開はありませんでしたが、明治時代に入ると1870(明治3)年、佐倉藩大参事西村茂樹が水害対策を目的に平戸から検見川への疏水路開削計画を立てました。しかし。藩札の発行について政府の許可が下りなかったため計画は中止となりました。1867(慶応3)年から1877(明治10)年までの11年間、印旛沼周辺で米が収穫出来た年はわずか2年しかなかったのですが、災害による人害がなかったため、明治政府(内務省)の水害対策は極めて消極的でした。1876(明治9)年、千葉県令柴原 和が内務卿大久保利通らに建議書を提出し、オランダ人技師ファン・ドルーンの調査が入ることになりましたが、1878(明治11)年に大久保が大久保等の専制政治は民権を抑圧し、国費を浪費し、政府官吏を私利私欲に走らせたなどの理由で石川県士族、嶋田一良(しまだいちろう)、長連豪(ちょうつらひで)、杉本乙菊(すぎもとおとぎく)、脇田巧一(わきたこういち)、杉村文一(すぎもとぶんいち)、それに島根県士族、浅井寿篤(あさいとしあつ)によって暗殺され、このため、工事は企画の段階で終わっています。
 明治の中ごろになると織田完之(おだひろゆき)という人が印旛沼の開発を試み、1888(明治21)年5月には印旛沼開削の同盟として「大明会」が設立され、多くの資本家が参加しました。織田は三河の豪農の出で、勤王派に加わり桂小五郎や高杉晋作らと共に国事に奔走したそうですが、維新後は明治政府の農業・干拓事業を担当し、印旛沼の掘削については特に尽力した人です。1889(明治22)年、内務省土木技師の古内公威(ふるうちこうい)の調査が入り、地元も盛り上がったのですが、投資効果が不明であるとの結論になり、内務省の態度は消極的になります。その後検討された計画も資金難に加え日清戦争(1894(明治27)年)前であったため実行されることはありませんでした。そうしているうち、織田も1893(明治26)年に印旛沼開発から手を引くことになります。
 1896(明治29)年9月、印旛沼は水位が平常水位より3.3メートル高の未曽有の水害に見舞われ、これを機に利根川の本格的改修が始まりました。1899(明治32)年になると千葉県知事阿部 浩が印旛沼開削調査部を設け、古内公威を顧問に招き、1903(明治36)年から6カ年、総工事費340万円の計画(当時の千葉県の年予算額150万円)を立てたのですが、日露戦争(1904(明治37)年)直前であったため、計画は中止となりました。しかし、利根川の改修は比較的順調に進められ、1922(大正11)年に印旛沼水門(安食水門:現千葉県印旛郡栄町)が完成し、利根川から印旛沼への逆流は無くなり、水害も軽減されました。
 大正期には印旛沼干拓による耕地拡張を目的に国家資本が投入されることになり、中央開墾株式会社が設立されましたが、第一次世界大戦(1914(大正3)年〜1918(大正7)年)後の不況で事業は縮小され、これも1939(昭和14)年に中止となりました。この年昭和放水路の計画に一部着工しますが、第二次世界大戦勃発の影響で1943(昭和18)年にこの工事も中止となりました。
  2 第二次世界大戦後の印旛沼周辺の干拓事業と印旛沼疏水路工事
 1945(昭和20)年8月15日に第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言の受諾で終結しました。当時の日本は深刻な食糧難と外地からの引揚者の失業対策に苦慮していましたので、その解決策の一つとして政府は、同年10月に 150万ヘクタールの開墾、10万ヘクタールの干拓、 210万ヘクタールの土地改良を行おうとする「緊急干拓事業(食糧増産事業)」を閣議決定し、その一環として印旛沼周辺でも当該計画に関わる工事に着手しました。しかし、この事業計画は規模が大きく理想的なものであったため、1950(昭和25)年には計画の見直しが行われました。一方、この間、化学肥料の安定的供給が可能となり、農家の食糧増産体制も徐々に整い、ようやく国民の食糧事情も好転しつつありました。また、1951(昭和26)年以降は千葉県の臨海部の埋立地への企業の進出が相次ぎました。そのほか1952(昭和27)年4月締結のサンフランシスコ平和条約に基づく食糧輸入などが相まって、ただ単に食糧増産を第一義とするような戦後の干拓治水事業は社会的に転換せざるを得なくなりました。このようなことで1962(昭和37)年には利水(水管理)に重点を置いた干拓、土地改良に計画が改められました。また、この時期は人口の増加や急速な産業の発展によって上下及び工業用水の需要が高まり、1962(昭和37)に水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)が設立されて、建設省(現国土交通省)の利根川水系のダム事業(利根川水系矢木沢及び下久保ダム)と農林水産省の印旛沼干拓事業も利根川水系事業の一環として、1963(昭和38)年に「印旛沼開発事業」と名称を改めて水資源開発公団に移管されました。
  3 水資源開発公団による印旛沼開発事業
 事業の移管後は堤防工事、疏水路工事などの各種工事が次々に着手され、印旛沼疏水路工事に関しては、1966(昭和41)年の大和田排水機工事の完工に続き、疏水路掘削工事、印旛沼堤防工事等が相次いで完了し、1969(昭和44)年には印旛沼に関係する工事の竣工式を迎えることになります。これにより1654(承応3)年の「利根川東遷事業」(注1) 完工以降から実に 315年間にわたって苛まれ続けた利根川、印旛沼一帯の洪水の歴史に幕が下ろされたのです。
 1843(天保14)年6月10日、老中の真田信濃守幸貫(ゆきつら)、掘田備中守正篤(正睦(まさよし))、それに水野が列座する中、土井大炊頭利位から申し渡された「意趣返し」ともいうべき「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用」の手伝い普請は、遥か庄内の藩吏と人夫達が血汗を流して臨んだものの、作業困難な地形地質構造と劣悪労働環境のために遂に完工を断念せざるを得なかったのですが、実に 126年の歳月の後に「印旛沼放水路」として、その工事諸元を流路延長 19,683メートル、底幅5〜60メートル、流量毎秒146立法メートル、掘削した土量 344万立方メートルとしてここに工事の終演を迎えたのです。
(注1) 江戸時代以前、江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを今の銚子方向に流路変更するための一連の河川改修工事のことです。
  4 完成した現在の印旛沼放水路の特徴
 完成した工事のルートは江戸時代の「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用」の工事ルートにそって完成したのですが、現代の工事の特徴は次のように江戸時代の工事とは大いに異なっています。
 第一にこの水路の正式名称は「印旛沼放水路」といい、「大和田排水機場」を境に印旛沼側を「放水路上流(通称新川)」、東京湾側を「放水路下流(通称花見川)」と呼びます。
 第二に現在の水路は印旛沼の水位(水路勾配 10000分の1)を保ったまま新川で大和田排水機場まで導き、ここで揚水して水路勾配3000分の1〜4000分の1の等流水路である花見川に放流しています。
 第三に花見川の途中の長作と天戸に水門を設けて花見川の川底を上げて、海水の逆流と花島付近の不安定な地質に対処しています。すなわち、天保の工事の際、鳥取藩が苦労した花島付近は地下水帯で自噴井戸が随所にあるため、掘削によって上載加重を除去すると、土かぶりと被圧地下水とのバランスが崩れて、水路底面が破壊されて、地下水の噴出や水路の両側の崩落、地滑りの危険が生じるので、被圧地下水を押さえながら徐々に水位を低下させて、江戸時代のような掘り込み水路とはしなかったのです。
  5 現在の印旛沼の洪水調節機能
 台風や低気圧による大雨で印旛沼の水位が上昇すると同時に利根川の水位も上がるため、印旛沼から利根川への自然排水が出来なくなります。そこで、まず長門川が利根川に合流する位置にある印旛沼水門を閉めて利根川からの逆流を防ぐとともに、印旛沼排水機(毎秒92トン)のポンプを稼働させて利根川への強制排水を行い、それでも沼の水位の上昇が治まらない場合は、大和田排水機場のポンプ(最大毎秒 120トン)を稼働させて東京湾へと強制排水させます。花見川の川底が新川の川底より高くなっているので、大和田排水機場のポンプで新川の水を汲み上げて花見川に放水するのです。
 印旛沼の強制排水のようなことは、中山町の「山形県野球場」で私も業務上経験したことがあります。つまり、最上川の洪水位より低い野球場への浸水を防ぐため、ポンプを稼働させることによって最上川に侵入水を強制的に排水するのです。現在のように動力を東北電力からの電力供給に切り替えるまでは、A重油を燃料としてガスタービンで発電し、その力によって強制排水を行うので、発電施設は小規模ながら発電所の扱いを受け、通商産業省の指導監督・検査を受けていました。
 新川と花見川とを分ける位置にある大和田排水機場のもう一つの働きは「流動化運転」です。これは、普段は滞留している印旛沼の水を強制的に排水することによって沼の水を流動化させ、これにより沼の水質の改善を図るもので、年数回行われています。
《終わりに》
 1843(天保14)年、時の老中水野越前守忠邦が描いた洪水防止と干拓による開田、それに船運のための疏水路開削の目的の内、船による米運搬用の水路開削は叶わなかったものの、水野の目論見は水資源開発公団の手によって大部分実現したことになります。
 庄内藩の難工事場所であった現千葉市花見川横戸町の弁天橋から下流域を望むと、これから15キロメートル先の東京湾河口までは高低差がほとんどなく、水の流れは「瀞」のようにとどまり、両岸の丘陵の濃い緑を映して一見渓谷の様な雰囲気を醸し出しています。少し離れた周辺地域は新興住宅地として整備が進み、近くには京成電鉄や主要道路が走っているのにここだけは静寂な自然の様相を見せているのです。そして現在は利根川沿いの「水と緑の運動公園」と東京湾の「検見川浜」との間、長門川〜北印旛沼〜西印旛沼〜新川〜花見川と結ぶ延長54.4キロメートルのサイクリングロードが走り、サイクリングを楽しむほか散策、野鳥観察などのレクレーション活動が行われています。河口近くには、JR京葉線、総武本線、京成千葉線、国道14号線、湾岸道路等の近代文明の集大成である鉄の塊が花見川を跨ぎ、そこを同じく文明の産物である電車や車が一瞬のうちに走り抜けていきます。
 弁天橋から渓谷のような風景を見せる花見川を眺めていると、流れはあまりにもゆったりと静寂で、その昔、郷里の先人達が血汗を流し、厳しい地形と劣悪な作業環境と必死に闘ったことなどは全く想像することが出来ず、近くの下横戸共同墓地の異郷に眠らざるを得なかった庄内人夫達の墓碑を訪ねることによって初めてその歴史の一片を知ることが出来るのです。
2011年5月5日