1 逆さまに描かれた地図
私達が普段目にする地図は、日本地図でも世界地図でも地球儀でも「北が上」、「南が下」に描かれていることが当然のことのように理解されています。また、太陽系の惑星の軌道図を見ても、地球はきちんと北が上になった状態で公転しています。しかし、世の中にはこれが逆に描かれている地図があって、一般的に「逆さ地図」と呼ばれており、私は、このような「逆さ地図」を3種類持ち合わせております。その一つは、1992(平成4)年2月に、小国山岳会の皆さんと南半球のニュージーランドの南島にあるフィヨルドランド国立公園とアスパイアリング国立公園に跨るルートバーントラックを2泊3日の行程でトレッキングをした際、下山地のワカティブ湖に面した小さな田舎町、グレノーキーの土産物店で記念に買い求めたA2版ほどの大きさ(横575ミリメートル、縦417ミリメートル)の「THE NEW WORLD MAP」で、縮尺の表示は有りません。二つ目は、最近入手したものですが、富山県が発行したB1版(横1030ミリメートル、縦728ミリメートル)の大きさの「環日本海諸国図」と題する地図です。三つ目は、これも最近財団法人日本地図センターから買い求めた紙規格B1版の大きさの「東アジア交流地図」です。
「THE NEW WORLD MAP」は、ニュージーランドの隣国のオーストラリアでも同様のものが売られていると聞いていますが、ニュージーランドもオーストラリアも新たな流刑地、移民流入地であった歴史的経緯や南半球に存在する地図上の位置関係に起因しているため、宗主国イギリスから、オーストラリアやニュージーランドを指し、「イギリスより下の下」の意味を持つ「Down Under」と呼ばれ、このことを両国民は少なからず不愉快に思っているようです。そこで、これらの国々の人々の反骨精神がこのような「逆さ地図」を作りだしたといわれていますが、事実この逆さ地図では、南極側に「イギリスより上の上」の意味合いを持つ「Up Over」、北極側に「イギリスは下の下」の意味合いを持つ「Down Under」と太字で黒々と表記してあります。
これについて調べてみると、オーストラリアの12歳の少年スチュアートが、『普通の地図に対してオーストラリアを上にした反対の描き方もあっていいのではないのか』との素朴な疑問からこの描き方に着眼し、彼が長じてメルボルン大学在学中の1979(昭和54)年の「オーストラリア記念日」に作品を発表したといわれています。以来、話題性と知的議論の喚起用に、また、商品デザインの一つとしてオーストラリアやニュージーランド国内では広く受け入れられており、外国からの観光客目当ての土産物としても人気を博しています。私が時折世話になる鶴岡市本町一丁目の荘司貞夫さん(71回、昭和39年卒)が営む村上屋旅館の帳場の壁にはB1版サイズの同様の逆さ地図が貼ってありましたが、知人の新婚旅行の土産として貰ったものだそうです。
「環日本海諸国図」は、富山県が交流を続ける極東ロシアや韓国、中国を含めた北東アジアを大陸側から眺めてみようと、1994(平成6)年7月に作成したもので、昨年度までに約2万3千枚の売り上げがあったと宣伝しています。日本国内だけではなく、中国やロシアなどからの引き合いも多いそうですが、特に極東ロシアでは教育機関等に掲示されているとのことです。縮尺は350万分の1で、富山県を図の中心に置き、県庁を基点に250キロメートル、 500キロメートル、1,000キロメートル、1,500キロメートル圏が分かるように同心円が引かれており、日本の中心が富山県沖の日本海にあることを強調しています。 「東アジア交流地図」は、新潟県佐渡市が「環境にやさしい歴史と文化の島」として、観光や自然保護などの国際交流の取り組みに視点を置いて2010(平成22)年3月に発行したもので、佐渡市を図の中心に配置しています。縮尺は600万分の1で、表示されている範囲は、日本の全地域と樺太、千島列島から台湾、香港、中国の朱鷺の保護区がある陜西省・漢中市・洋県を含む地域が入っており、地名表記については、近隣諸国の利用の便も考慮してか、漢字圏の国々の地名には漢字表記のほかに主要地名に英文が表記されています。
2 先住者と移植者
逆さ地図が数多く作成されているオーストラリアとニュージーランドは、ともに最初の発見者はオランダ人でしたが、不毛の地と見て撤退したオランダ人に代って最終的に植民地としたのは何れもイギリス人でした。
オーストラリアという国は、1778(天明8)年に後のオーストラリア植民地提督となるイギリス人のキャプテン、アーサー・フィリップがシドニーのボタ二―湾に上陸してから以後、最初はイギリ本国からの囚人の流刑地でしたが、引き続いて一般人が入植し始めました。そのために、先住民であるアボリジニは、多くの人々がイギリス人による「ハンティング」と称する残虐な行為によって虐殺されたり、強制的に移住されたりするなど、その歴史には悲劇が綴られるのですが、ようやく1993(平成5)年に至って元々のアボリジニ居住地域の所有権が認められました。2000(平成12)年開催のシドニー五輪で金メダルを獲得したアボリジニのキャシー・フリーマンが、民族の誇りの象徴であるアボリジニの旗とオーストラリアの国旗に身を包んでウイニングランをしたことは、印象的な事件で、オーストラリア国内で議論を呼びました。その後、2008(平成19)年2月13日には、ケビン・ラッド首相がオーストラリア政府として過去の先住民に対する対応に関し初めて謝罪しています。今日では大半のアボリジニが都市部に居住し、白人社会に同化し、仕事を持つ一方で、伝統舞踊に興じる人もおり、伝統と欧米文明の双方を独自に組み合わせて生活する人々が多くなっているそうです。建国記念日は、アーサー・フィリップがシドニーのボタ二―湾に上陸した1月26日に因むもので、この日は、日本が位置する北半球とは正反対に南半球の1月26日は暑い夏の真っ盛りで、オーストラリア人は海岸、公園などでパーティーを開催するなどして建国記念日を楽しく過ごすそうです。
一方、隣国ニュージーランドの建国記念日は2月6日とされています。この日は、1840(天保11)年2月6日、当時武力衝突が絶えなかった先住民のマオリの首長達46人とイギリス政府の代表・ボブソンとの間で、北島北部のワイタンギというところで「ワイタンギ条約」が締結されたことを記念して定められたものです。この条約は、@全てのマオリ族はイギリス女王の臣民となりニュージーランドの主権を王権に譲る、Aマリオによる土地所有は引き続き認められるが、土地の売却はイギリス政府へのみとする、Bマリオは今後イギリス国民としての権利が認められるというものでしたが、イギリス側とマオリ族との解釈の相違で、マオリ側の認識は、「全ての土地は自分達のもの」というものであり、一方でイギリス側は「ニュージーランドはイギリスの植民地である」と捉えていました。このため、1843(天保14)年と1872(明治5)年にマリオ族の反乱が起こり、いずれの反乱も鎮圧されたもののニュージーランド政府はその後この問題を放置し、1975(昭和50)年に至り「ワイタンギ審判所」が創設されて、ワイタンギ条約で認められた権利について再度審議を開始しました。その結果、一部強奪した土地をマリオに返還するとともに英語だけだった公用語にマリオ語を加えることにしたのです。このような経緯があり、また、今日でも先住者と移住者との間での土地に関する係争が多々あり、2月6日を「祝うべきか、否か」の国民投票を実施すると否定的意見が過半数を占めるそうです。従って、隣国オーストラリアのお祭り気分の建国記念日に比べると、ニュージーランドのそれはちょっとニュアンスが異なるようです。
3 逆さまからの視座
今年の連休は家で過ごす時間が多かったため、比較的読書の時間を持つことが出来ましたが、この中で「逆さまの地球儀 複眼思考の旅」(和田昌親(わだ まさみ)著、日本経済社出版、2008年12月16日)という本を手にすることが出来ました。この本の著者は、東京外国語大学の卒業で、日本経済新聞社記者、同社サンパウロ特派員、経済解説部長、欧州総編集局長、QUICK(筆者注:金融情報配信会社)取締役、日経アメリカ社社長等を経て、日本経済新聞社常務取締役を勤め、2008(平成20)年からはOCS(海外新聞普及会社)の専務取締役の職に就いている人です。
著者はこの本で『我々は日頃北半球の視点で世界を見る傾向があるが、日本の反対側のインカは太古の先進国であり、地球上には地理的感覚が全く逆な南半球があり、文化や価値観も北半球とは異なる。そこで、私たちから見れば別世界ともいえる南半球を視座にして世界を複眼的思考で眺めることが重要である。』と説いています。そして、田中角栄元首相がかつてブラジルを公式訪問した際、日系移民を激励する意図で『地球の裏側で頑張って居られる日系人の皆様』と発言し、これに対して日系移民の間では『裏側とは何事か、地球には表も裏もないはずで、自分がいる北半球を表とするのは傲慢である。』と大騒ぎになり、それ以来、日本の外務省は、ブラジルやアルゼンチンの位置関係については、「日本の反対側」と表記しているというような逸話を紹介しています。
また、『スイスには北半球としては珍しく逆さ地図があるが、地球上の大半の人々は生まれてから死ぬまで北が上、南が下の地図を見続けている。近代文明という世界的流れは北半球の人々が作りだしたのは事実であるが、このことが、北半球中心の考え方で世界中を支配してきたのではなかろうか。』と推論しています。
かつて日本には「表日本」、「裏日本」という言葉がありました。なんでも日本の首都東京を玄関口とした太平洋ベルト地帯を「表」とした場合、日本海側をその「裏」とする地理用語が「表日本」と「裏日本」だったそうですが、やがてこれが日常的にマスコミでも用いられるようになりました。ところが、経済格差が明確になったといわれる1970{昭和45}年代初頭になると、「裏日本」は後進性をイメージするとの指摘から、日本放送協会(NHK)が率先して使用を禁止し、特に新潟県選出の田中角栄が政権を握ると民間放送局や新聞社なども使用を自粛するようになり、その後は、現在のように「日本海側」、「太平洋側」という呼称に改められています。
私達の郷里・庄内も日本海に面し、かつては「裏日本」と呼ばれたのですが、江戸時代から明治時代にかけては、北前船の航路の主要港酒田港があり、この港町酒田と城下町鶴岡を核としたその周辺には豊かな穀倉地帯が開け、大阪への米の物流ルートとしては、「日本の表」として名を連ねていたのです。
一般的な地図が「北は上」で作成されているものの、その視点を変えて世界を眺めてみることは著者がいう通り必要なことのように思えます。ひょっとして意外なことに気がついたり発見したりがあるかもしれません。
月山、鳥海、朝日、飯豊などで見るブナは、ブナ科ブナ属(注1))の「ブナ」で落葉樹ですが、同じブナでも南半球には、「ナンキョクブナ」という常緑のブナがあることをニュージーランドでのトレッキングで知りました。それは山麓の日当たりのよい場所には、その葉が楕円形で鋸歯の尖った「赤ブナ」と呼ばれるものが主として生育し、一方、湿りがちの土地ではその葉が「赤ブナ」よりやや小さく丸い形で鋸歯が丸みを帯びた「銀ブナ」と呼ぶ種類があり、標高を上げるに従って葉が「赤ブナ」や「銀ブナ」に比べて小形で丸く鋸歯の無い「山ブナ」の林に移り、やがて樹木が生育しない森林限界になるというものでした。このように南半球の山を歩いてみて北半球と南半球とではブナはブナでもその形態が全く異なることに気が付いたのです。ただ、当時はこれを日本にあるものと同じ「ブナ」の仲間として理解しておりましたが、最近では、「分子系統」的には、近縁としながら別系統であるとし、また、「APG植物類体系」でも別の「科」としており、「ナンキョクブナ」はナンキョクブナ科ナンキョクブナ属として独立して分類されています。
ここでいう「分子系統」というのは、簡単に説明すると、「生物の持つタンパク質のアミノ酸配列や遺伝子の塩基配列を用いて系統的解析を行い、生物が進化してきた道筋(系統)を理解しようとする学問のこと」で、「APG植物類体系」というのは1990年代以降にDNA解析による分子系統学が大きく発展してきたことに伴い、植物分類学の分野で「被子植物(注2)の新しい分類体系において、DNA 解析から実証的に分類体系を構築すること」をいいます。なお「APG」はこの分類を実行する植物分類学者の団体である「Angiosperm Phylogeny Group」(被子植物系統発生グループ)の頭文字を綴ったものです(フリー百科辞典「ウィキペディア」を参照しました。)。
(注1)) 共通の性質は持っていますが、「種」の違う物を集めて「属」とし、「属」を纏めて「科」とします。日本のブナの場合、種として「ブナ」、主として太平洋側に分布しますが、山形県では確認されていない「イヌブナ」があり、これらを「ブナ属」とします。同じブナ科でも「ミズナラ」、「コナラ」などは、「コナラ属」になります。また、食用になるシバグリ、ヤマグリなどは、ブナ科クリ属になります。
(注2) 胚珠が子房に包まれている植物のことをいいます。一方、胚珠が子房に包まれておらずに露出している植物のことを裸子植物といい、マツ、イチョウ、ソテツ類がこれに該当します。)
4 逆さま地図を見ての思い
ところで、富山県発行の逆さ地図・「環日本海諸国図」は、北東アジアを大陸側から眺める意図で作られ、また、これを極東ロシアの教育機関が活用していることを前述しましたが、ロシアの人々はこの地図を眺めながらどのようなことを考えているのでしょうか。
ソ連邦崩壊(注3))後の日本では、日本海経済の活発化の一方で、北方領土を奪還しようとの高まりが生じ、「領土」と「経済」は不可分との方針が国策であったように思いますが、最近の動きを見ているとロシアが北方四島を極東サハリン州に組み込み、日本国民は切歯扼腕している状態です。2月7日(注4)は「北方領土の日」、2月は「北方領土返還運動全国強調月間」として山形県でも広報活動などを繰り広げていますが、いつのまにか領土返還の関心は置き去り気味になっているような気がします。ちなみに極東ロシアのウラジオストックという地名は、ロシア語で「東方を支配する」を意味します。
ソ連は、1945(昭和20)年8月8日に「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本に宣戦布告をし、日本が8月15日に降伏した後に北方領土に入り今日まで実行支配を続けています。そして、最近のロシアは、2010(平成22)年7月14日に上院で、日本が戦勝国相手に第2次世界大戦の降伏文書に署名した1945(昭和20)年9月2日(注5)を「対日戦勝記念日」にする法案を可決しましたが、これは北方領土の占有を正当化する作業の一環とみられております。また、2011年11月1日には、メドヴェベージェフ大統領が北方四島を視察して日本側を刺激し、これに対して現政権が不快の念を表明しています。更に、プーチン首相が、今年3月11日発生の「東日本大震災」に寄せて『日本は親しい隣国である。(北方領土など)様々な問題はあるが我々は信頼できるパートナーであるべきで、エネルギー資源の供給支援に全力を尽くさなければならない。』と強調しつつも、2011年5月16日にはイワノフ副首相ら5閣僚で構成する政府視察団が択捉島と国後島を訪れ、『北方領土が自国領との立場は震災後も変わりはない。』と強調し、インフラ整備も進展させることで、領土返還を求める日本をけん制するような動きを見せています。「環日本海諸国図」も「東アジア交流地図」も、日本とロシアとの国境を宗谷海峡と択捉海峡の所にそれぞれ明示して北方四島への日本の主権を主張しているのですが、国境の解決はこの先不透明なのが現実です。
何れにしても領土問題が解決し、日本とロシアとの真の友好関係が成就することを「逆さ地図」を見ながら切に望むものです。
(注3)) 1991(平成3)年12月25日にソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され崩壊したことです。
(注4)) 1855(安政元)年に日本とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた「日露和親条約」を締結した日に因んで定められたものです。
(注5)) 1945(昭和20)年9月2日、東京湾上に停泊する戦艦ミズーリの艦上でアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドの9カ国が調印して日本の降伏を受け入れました。
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