雲井龍雄の庄内藩探索(上)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
雲井龍雄の庄内藩探索(上)
1 雲井龍雄・庄内藩探索紀行
 私の手元に『雲井龍雄・庄内藩探索紀行』(2005年2月20日初版発行、高島 真著、有限会社無名舎出版)と題する本があります。幕末のある時期、米沢藩士の雲井龍雄が鶴岡や酒田に探索に赴いていたことをこの本を読んで初めて知りました。雲井龍雄に関する小説・『雲奔(はし)る 小説・雲井龍雄』(1982年11月25日第1刷、藤沢周平、株式会社文藝春秋)(注)ではこのことについては触れていませんので、多分、このことは一般にはあまり知られていないのではないかと思われます。
 この『雲井龍雄・庄内藩探索紀行』の前書きによれば、雲井龍雄は日記を書き残し、或いは人からの聞き書きを残しているのですが、不思議なことにこれらは二つに切り離され、現在それぞれの所蔵者を異にしているというのです。そこで、著者はこれらの資料を種々探し求め、かつ、これらを丹念に照合し、龍雄が庄内で何をつかんだのかを『雲井龍雄・庄内藩探索紀行』として著したのです。以下、庄内における探索に関する事項を抜粋して略記してみます。
 (注))別冊文藝春秋1974(昭和49)年129号に『雲奔る』、1975(昭和50)年に『檻車墨河を渡る』というU章タイトルで発表されましたが、単行本の出版の際に題名が『檻車墨河を渡る』となり、更に、文庫本化されたときに『雲奔る 小説・雲井龍雄』となったものです。
2 雲井龍雄の旅の経路と旅の真の目的
 雲井龍雄が庄内の探索の旅に出たのは、1867(慶応3)2月(陽暦では3月)の13日からの15日間で、そのコースは米沢を発って上山、山形、大石田(乗船)、清川(下船)、藤島、鶴岡(現出羽ホテルのある場所にあった伊勢屋に宿泊)、内川の荒町の橋のたもとの渡船場で乗船、酒田(下船、伝馬町の吹浦屋に宿泊)、再度最上川を渡り、陸路で十里塚、浜中、加茂、油戸、浜温海、鼠ヶ関、村上、小国、飯豊と巡る大凡400キロメートルに及ぶものでした。
 激動する世情に情熱をたぎらせる龍雄は、1年近く入門していた江戸の儒者・安井息軒の「三計塾」を藩命により辞して帰郷し、藩から探索方を命じられ、同僚の柿崎家保と共に表向きは鶴岡の町奉行金井同じく酒田の同井上の両氏への書類を提出するとの名目の旅でしたが、重要書類とされながら金井宛てのものは、宿泊先の伊勢屋の息子に使いを頼み、井上宛てのものは日記で曖昧に記されているように、その用務の裏には庄内藩の内紛を探索する仕事を命じられていたのです。すなわち、龍雄の庄内での真の用務は、酒田に居を構え、私塾を開いている神保乙平(じんぼ おとへい)という人物に直接会って、庄内藩の内紛に関する情報を入手することでした。
3 神保乙平なる人物
 神保乙平なる人物は、米沢藩の儒者・神保蘭室の孫で、江戸在勤中に無断で家に帰った罪により追放され、秋田より酒田に移り住んだという人ですが、彼は別の異なった顔を持っていました。1839(天保10)年6月当時28歳で、50騎・禄高90石の乙平は、20歳になる上杉斉憲(うえすぎ なりのり)公の「御学問御相手」を仰せつかっていました。それから5年後の1844(天保15)年3月23日になって,庸作に家督を譲り隠居します。このとき乙平はまだ32歳の若さで、隠居後酒田に現れるまでの2年間の動きも明らかでなく、何か隠された理由があったのです。酒田における乙平は、20数年間、白崎五右衛門の支援を受けて私塾を創設し、数百の後進を薫陶し、1868(明治元)年に旧米沢藩の命を奉じて故郷に帰っています。酒田の門人達は乙平の徳を思い起こし、1784(明治17)年になって酒田市寿町の安祥寺境内に頌徳碑を建立しています。
4 神保乙平の私塾を支えた白崎五右衛門(一実)
 酒田の富商で質屋・太物商(綿や麻織物など太い糸の織物の総称です。絹織物に対して用います。)を営んだ白崎五右衛門(一恭)の子、一実は、15歳で米沢藩校の興譲館に入り、藩儒・神保蘭室のもとで漢学を学び、一恭の没後、家督を継ぎ五右衛門を名乗り、町政につくして町年寄となります。1846(弘化3)年には、米沢藩から退けられた神保乙平を迎え入れ、荒町に塾を開かせるなどして酒田の子弟教育に力を入れます。しかし、彼には実子がなく、先に鐙屋惣右衛門の子、一誠を養子に迎えていたので、彼も家督を継ぎ五右衛門を襲名します。庄内藩が海防のため宮の浦に新しく城を築くため、飯盛山下に家臣達の家屋を新築した時に御普請用掛を勤めました。一誠の子は一随といいますが、一随の後は鶴岡の風間家から養子に入った惣吉が白崎家を継ぎ良弥と称し、後に「酒田港誌」を編纂しました。なお、良弥は、曾祖父の一実が乙平の祖父である神保蘭室の高弟であり、乙平を庇って塾の経営を援護していたことを熟知しており、乙平を密かに訪ねた龍雄にも強い関心を抱いていました。
5 神保乙平のもう一つの顔
 1865(慶応元)年、加賀国の二百石積み沖船が、大嵐のため飛島付近で遭難し、船は浜中海岸に打ちつけられ横倒しとなりました。このとき、船頭長右衛門は米沢藩蔵からの預かり品、『青苧60個中、37個は引き揚げたものの23個を流出した』旨の謝罪文を「上杉弾正大弼(うえすぎだんじょうだいひつ)様御内」の神保乙平宛てに提出し、米沢藩の御蔵宿で藩御用達商人の鐙屋哲右衛門と西野長兵衛はその書付に相違ない旨の添え書きと押印をしています。更に庄内藩役人の加藤曽兵衛と清水増之助は、酒井左衛門尉内という肩書で『引き上げた青苧は37個で、村役人と船頭が立会、西野長兵衛に引き渡した。残り23個は見つけ次第西野長兵衛に渡す』旨の一札を乙平に送っています。このことから見て、乙平は、このころ酒田の御用商人や庄内藩の役人に対して米沢藩の窓口の仕事をしていたことになり、彼が庄内の状況を米沢藩に報告し、指示を受けていたことになります。1868(明治元)年に旧米沢藩の命を奉じて故郷に帰ったこともその裏付けに他なりません。つまり、乙平は米沢藩に絶縁された形にされて初めて彼は庄内で自由な行動が可能になり、祖父蘭室のかつての弟子のもとに身を寄せ、そこで塾を開き、多数の門弟を教育し、庄内藩や沿岸につながる諸藩の情報もたやすく入手できる立場になりました。激動の時期に庄内藩はどう動くか、米沢藩は庄内に信頼できる情報源を持つことが出来、酒田の御用商人筋は彼を米沢藩の出先として遇し、藩もそれに乗ったと考えられているのです。
 このような不思議な人物神保乙平から庄内藩の情報を入手するという米沢藩の密命を与えられた雲井龍雄が酒田で乙平から長時間にわたって庄内藩に関する情報を聞き出し、日記に聞き写した内容に「丁卯の大獄(大山庄太夫事件)」がありました。
 以下、当該事件が起きるまでの庄内藩の情勢について簡単に纏めてみますが、これには、 『雲井龍雄庄内藩探索紀行』(高嶋 真)、『新編庄内人名辞典』(昭和61年11月27日発行、庄内人名事典刊行会編、庄内人名事典刊行会発行)、『庄内藩』(平成2年10月10日第1刷発行、斎藤正一著(敬称略、46回・昭和13年卒)、株式会社吉川弘文館)、『庄内藩』(2009年9月20日第1班第1刷発行、本間勝喜著(敬称略、69回・昭和37年卒)、株式会社現代書館)、『早わかり日本史』、1997年12月20日、河合敦著、株式会社日本実業出版社)、『維新前後に於ける庄内藩秘史』(昭和42年7月3日、石井親俊(敬称略、12回・明治37年卒)、壹誠社)、『明治維新の志士雲井龍雄』(米沢児童文化協会編(郷土に光をかかげた人々より)(インターネット))、『謀殺された志士雲井龍雄』(高島 真、インターネット)、『もう一つの維新』(夏堀正元、インターネット)を主として参考にしました。
6 藩主酒井忠発廃立の動き
 天保の「三方領知替」が主として庄内藩領民の反対運動によって中止となったわけですが、第8代藩主忠器(ただたか)も責任を取って1842(天保13)年4月に隠居し、代って長子の忠発(ただあき)が藩主となります。忠器隠居時の執政陣容は、松平甚三郎、酒井奥之助、水野内蔵丞の三人が家老、酒井右京、竹内右膳、松平舎人(とねり)が老中でした。このうち酒井奥之助、酒井右京が藩主家の分家、松平舎人は松平甚三郎の分家であったので、6人中4人が藩主の一族であり、特に両酒井家は啓家(けいけ;敬われる家)と称され、発言力が強かったのです。
 前藩主忠器は勤皇派であり両敬家や舎人らを信頼していましたが、忠器や重臣たちの忠発に対する信頼は薄く、ために忠発が家督を継ぐのが遅れたといいます。信頼が希薄であった理由は明らかではありませんが、忠発が佐幕派的な考えの持ち主で、保守的で藩改革等に熱意を示さなかったこと、放逸派と恭敬派(注)の対立も内包されていたことが推察されています。そのため、忠発が藩主になった直後から奥之助、右京、舎人等は、忠発を廃立し、支藩松山藩酒井家の分家で幕府の旗本酒井忠明を代わりに立て、同じく分家で旗本の酒井大膳を後見とすべく画策したのですが、忠発の知るところとなり、忠明は捕えられ、松山藩に預けられ長く牢に入れられる羽目になりました。この画策に最も活躍したのが、江戸留守居の大山庄太夫でした。庄太夫は三方領知替事件に関して奔走し、転封阻止に成功した功績が大きく、忠器の信任も厚く、加増を重ねて知行三百五十石(うち役料(役職手当の一種です。)百石)となっていました。両敬家や庄太夫らの動きは隠居忠器の内意を反映していたものと考えられています。その後も忠発廃立の動きは続き、1844(弘化元)年頃には忠発の弟忠中(忠器の三男)を擁し、前述の酒井大膳を後見役との動きもあったのですが、忠中が1845(弘化2)年に病死したため、計画は再度頓挫しました。忠発と重臣たちとの対立は続き、忠発も重臣たちの処分を考えていたと思われますが、忠器の存命中は容易に実現できませんでした。
 (注)放逸派とは、藩校致道館において荻生徂徠の学風や言行を信奉し、瑣事(さじ:細かいことの意味です。)に拘泥せず日常生活が放逸であったのに対して恭敬派とは、太宰春台の学風と性格を強く受け、謹厳な生活態度を重んじたので、このように呼ばれました。放逸派としては白井矢太夫(初代の祭酒(校長)や実弟の白井重固(しらいじゅうご)等がおり、松平権十郎もこのグループです。恭敬派としては犬塚男内(いぬずかだんない;致道館を三の丸内の馬場町十日町口に移すよう首唱しました。)、石川朝陽等がいました。放逸派と恭敬派の闘争は激しく、詩文で藩内随一と称された放逸派の助教菅基(伊織)(すげもとき)は犬塚のために江戸定府に移されたといわれ、また、犬塚の死後、その高弟で助教と舎長を兼ねていた大瀬準次郎(正班)は、1840(天保11)年、放逸派の組頭服部行蔵の糾弾を受け、親類に預けられたのですが、その糾弾は無実であったといいます。なお、大瀬の高弟服部毅之助(はっとりたけのすけ)は後述の丁卯の大獄に連座することになります。
7 藩主忠発の側近勢力の伸張
 しかし、年月の経過とともに状況に変化が生じ、忠発側の新しい側近勢力が形成されるに従って、次第に忠器時代の重臣たちの勢力は失われて行きました。1848(嘉永元)年には家老に昇進していた酒井右京が辞任・隠居し、1850(嘉永3)年には大山庄太夫が江戸留守居役から用人に、翌年には酒井奥之助が家老を罷免されました(「庄内藩」)。
 このような時期に改革派は忠発の二男で世子(せいし=諸侯の跡継ぎのことです。)忠恕(ただひろ)が早く藩主の座に就くことを期待していました。忠恕は1853(嘉永6)年11月に将軍家定に初見の令を取り摂津守に任じられたので、それを機会に酒井奥之助、酒井右京、松平舎人らは忠発の隠退、忠恕の家督相続、酒井大膳の後見を実現し、藩政改革の断行を求める陳情書を幕府老中の阿部伊勢守に提出しました。幕府の威光によって藩主の交代を実現しようとしましたが、幕府の無視によりこれは実現しませんでした。また、忠恕は1852(嘉永5)年に土佐藩山内家から瑛(藩主豊信の義叔母)を妻に迎えており、豊信(容堂)の後ろ盾を得て藩政改革を図ろうとしたとも言われています。しかし、1854(嘉永7)年3月に忠器が65歳で病死し、改革派にとっては最大の後ろ盾を失うことになって、同年6月には改革派の先鋒であった大山庄太夫が用人を免じられています。しかも、1857(安政4)年に庄内下向中の忠恕が病(痲疹=はしか)のため20歳で急逝したので、改革派の期待はまた挫折したのです。
8 公武合体論支持派(改革派)の形成
 庄内の公武合体論支持派(改革派)は二つの流れから形成されて行きました。その一つは、淡路出身の国学者鈴木重胤が、秋田の熱心な尊王思想家で著名な国学者でもある平田篤胤の直接指導を受けるために秋田に赴いたことを契機に庄内、特に領地大山村の年寄役で酒造家大滝光憲(三郎)との深い関係が結ばれ、鈴木重胤は7回も庄内を訪れることになります。そして、熱烈な尊王思想が庄内にも伝えられ、大滝光憲は照井長柄(てるいながら;町医)、広瀬巌雄(ひろせいずお;米商、後述の丁卯の大獄に連座することになります。)、星川清晃(庄内藩給人;国学者、後に出羽三山神社二代目宮司になります。)、秋野庸彦(あきのつねひこ;国学者)らの同志と共に鈴木重胤の門下となり、「賢木舎(さかきのや)」を組織し、古事記、日本書紀、万葉集などから我が国固有の文化、精神を明かそうとする国学の思想を鈴木重胤から学び、佐幕派に固執する庄内藩の方針に飽き足らなくなります。
 他方、庄内藩士で江戸詰めとなって江戸滞在を、或いは江戸に遊学してその間広く世間の事情を知り、政局の動向に関心を抱いた者たちは次第に公武合体論支持派(改革派)の立場になっていきました。用人上野直記、服部穀之助(はっとり たけのすけ)、赤沢準之助、深瀬清三郎、池田駒城(いけだ くじょう)等がその代表に挙げられます。何れも後述の丁卯の大獄に連座することになります。
 上野直記(三百石)は1843(天保14)年に相続し、1850(嘉永3)年10月に江戸定府を命じられ、1860(万延元)年に用人となりました。生来学問を好み、漢学に秀でて、子弟の教育にあたると同時に江戸在勤中は旗本や他藩の子弟の教育にもあたりました。嘉永・安政の激動期に江戸に住み、校友が広く天下の動向にも通暁していました。また、尊王精神に厚く、公武合体論を支持し、大山庄太夫とは懇意な間柄で、1853(嘉永6)年に公武合体論支持派(改革派)が老中阿部伊勢守に提出した陳情書は彼の起草でした。服部穀之助は恭敬派の学者大瀬準次郎の高弟で、改革派に加わっていて、江戸在勤中に勝安房(勝海舟)の門に入り西洋兵学を修めた人でした。赤沢準之助(あかざわはやのすけ・八十石)は御台場詰を経て1859(安政6)年に藩命により海軍操練所に入所し、軍艦操練に当たるとともに勝海舟の塾で蘭学を学び、江川太郎左衛門の塾では砲術を学んでいます。洋学を学んだ服部穀之助や赤沢準之助らは国元の佐幕一辺倒の政策に批判的であり、大山庄太夫と結びつくことになり、また、反佐幕ということで庄内の国学を学ぶ者とも結びつくことになりました。
9 忠恕の病死後の12代藩主の継嗣問題
 忠発自身は三男繁之丞を自分の後継者として望んでいましたが幼少のため叶わず、改革派が望んでいたという忠発の弟忠寛(ただとも、忠器の十三男)を養子に定め、1859(安政6)年9月に幕府の許可を得ました。ただし、この頃になると改革派は全く藩政からは遠ざかっていました。そして、忠発は1861(文久元)年8月に隠居し、家督を忠寛に譲ります。忠寛は凡庸な人物ではなかったようで、財政問題に関心を持っていましたので、酒井右京・酒井奥之助・松平舎人・大山庄太夫らの改革派は、忠寛に大いに期待し、藩政改革と公武合体の藩是の確立を目指しましたが、忠寛は翌1862(文久2)年に痲疹(はしか)のため24歳で夭折しました。忠寛には妻子が居なかったので、忠発の第三子繁之丞(忠篤)を末期養子(まつごようし)として幕府の許可を得ました。
10 幕末における思想の変遷
 ペリーが来航(1853(嘉永6)年)してから徳川幕府が崩壊するまでは僅か15年ですが、この間の思想の動向はややこしいものがあります。
 そもそも「尊王攘夷論(尊攘論)」というのは、天皇を貴ぶ「尊王論」と外国人を追い払う「攘夷論」という別々の思想でした。これを結びつけたのは水戸藩の会沢正志斎(あいざわせいしさい)ですが、ペリーの来航、諸外国の通商条約強要、それに対する幕府の弱腰外交が、天皇への期待となって、この思想を全国的に普及させました。しかし、勝海舟のように開国論を唱える人も少数ですがいたのです。当時大老を勤めていた井伊直弼は、幕府独裁(佐幕論)の立場から吉田松陰(長州藩)、橋本佐内(越前藩)などの尊攘主義者を厳しく弾圧(安政の大獄)しましたが、逆に桜田門外で暗殺(1860(安政7)年)されてしまい、幕府の権威は低下することになりました。そこで、幕府は、朝廷と融和して外国に対処するという「公武合体論」の立場をとります。薩摩、土佐、会津藩もこれに同調し、朝廷内でも公武合体派が台頭し、長州の尊攘派とせめぎ合い、1863(文久3)年長州勢力は朝廷から放逐されました(8月18日の政変)。しかし、薩英戦争(1863(嘉永6)年)、英米仏蘭からなる四国艦隊下関砲撃事件(1864(元治元年)を経験し、外国の強大さを改めて実感した薩摩藩と長州藩は、幕府を倒して早急に中央集権国家をつくる必要性を強く感じ、1866(慶応2)年、密かに薩長同盟が結ばれ、第2次長州征討(1866(慶応2)年)で幕府軍が長州軍に敗北すると討幕の勢いは急激に加速します。これに対して、土佐藩は、朝廷を中心とした徳川家を含む雄藩連合政権を構想、徳川慶喜に「大政奉還」を勧め、慶喜がこれを受託して政権を返上(1867(慶応3)年10月14日)すると、徳川家の処分をめぐって朝廷で会議(小御所会議)が開かれました。その席上で薩長の倒幕派と土佐・越前の「公議政体派(雄藩連合政権を主張)」が激しく対立したのですが、結局、慶喜の辞官納地が決定されました。しかし、その後、公議政体派が巻き返しを図り、慶喜の入閣が決定寸前まで進みましたが、倒幕派の挑発で暴発した幕臣が鳥羽・伏見の戦い(1868慶応4)年)に敗れ徳川家の新政権参加の夢は潰えたのです。これにより公議政体派は倒幕派に主導権を奪われ、戊辰戦争の勝利後、薩長藩閥政府が成立するのです。
11 公武合体論支持派(改革派)の幕府への陳情
 第一次長州戦争が中止になった1864(元治元)年の暮れ、酒井右京、大山庄太夫らは藩政改革に関する陳情書を老中稲葉美濃守正邦に提出しましたが、稲葉正邦は忠発の女婿であり、庄内藩と幕府が密接な関係にあるとき、陳情書の提出は無謀な行動でした。佐幕の固守は将来庄内藩が窮地に陥るとの判断から死を賭しての陳情であったと思われます。運動資金は酒田の本間家に次ぐ財力の保持者と噂されていた舎人が出し、江戸と庄内との連絡は池田駒城が当たりました。舎人は、田川郡黒森村(のちの袖浦村、現在の酒田市内)を開拓して多くの田畑を所有し、藩中有数の富豪でした(「新編庄内人名事典」)。しかし、幕府はなんらの反応も示しませんでした。翌1865(慶応元)年に入ると池田駒城は箱館留守居役に転出し、3月には上野直記と酒井奥之助が病死します。
 4月忠篤は江戸市中取締りを一手に引き受け、中老で江戸定府の松平権十郎(親懐(ちかひろ))の役割が重くなり、幕閣との接触も頻繁となりました。同年11月、将軍より忠発夫人に下賜され、鶴岡城下の百間堀の中土手で飼われていた鶴が何者かに殺され、改革派の陰謀だとのうわさが流れました。
 稲葉正邦は、1865(慶応元)年に老中を辞したのですが、翌年4月に再度老中に就任しており、たまたま、江戸市中警備のことで幕閣に参与した松平権十郎に対して改革派の陳情について質問をしましたが、権十郎は改革派についての認知はあったものの、陳情のことは思いもよらぬことでしたので、大きな衝撃を受けました。
12 庄内の凶作と郡中騒動
 時あたかも第2次長州征伐のために物価は高騰し、1866(慶応2)年の米価は鶴ケ岡相場で金10両につき2俵9分と前代未聞の高値を記録しました。江戸における物価の変動も1859(安政6)年から慶応の末(1867年)までの9年間に、米 3.7倍、水油4倍、繰綿(くりわた) 4.3倍、搾粕4倍、干鰯3倍という高値で、大山村の醤油屋丸屋才兵衛は「値段上下控帳」に「神武天皇様以来前代未聞珍敷直段と相聞候」と書いていました。
 1866(慶応2)年6月に開始された第2次長州征伐は薩長同盟の成立によって7月に入ると情勢は悪化し、将軍家茂が大阪で病死し、8月には停戦となりました。この頃窮民によって打ち毀しが全国的に起こりました。同年8月、越後に打ち毀しが起こったという情報を得た庄内藩は、領内に騒動が波及することを恐れ、8月3日、藩士を鼠ヶ関と小国口に派遣して警固しました。この年は8月の大風で庄内は凶作となり、藩は応急対策として救米1万3千俵を施与しましたが窮民を満足させることは出来ませんでした。9月25日、鶴ケ岡荒町の下山王社境内に立て札が建てられ、28日夜、農民多数が同境内に集合し年貢の免除を嘆願し、10月の初めには山浜通山中に、同月18日には上藤島の六所神社境内に集まり、減税救援を訴願しました。これら百姓の集会の裏には改革派の扇動があったとの風評も立ちましたが、結局騒動は、佐幕派(主流派)である松平権十郎や菅実秀らによって鎮圧され、以後佐幕派は、藩内で勢力を持つとともに公武合体派に関わる者を逮捕投獄・粛清して藩論を佐幕派で統一することになります。


2012年2月3日