雲井龍雄の庄内藩探索(中)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
雲井龍雄の庄内藩探索(中)
13 丁卯の大獄(大山庄太夫事件)
 第2次長州征伐の失敗は、佐幕一辺倒でやってきた松平権十郎や菅実秀らの主流派にとっては大きな打撃であり、藩内に政策批判の起こることを恐れ、1866(慶応2)年10月28日から酒井右京出入りの医者で改革派の集会場になっていた五日町の日下部宗伯を皮切りに宗伯の書生吉田駒太郎、御徒深瀬清三郎、大山庄太夫、御徒隠居永原寛兵衛、馬医佐藤収蔵、御徒斎藤茂太夫、飛脚船戸の金次郎、国学者広瀬巌雄、服部毅之助(はっとりたけのすけ)、赤沢準之助(あかざわはやのすけ)、加藤五三郎(逮捕前に自殺)、池田駒城(いけだくじょう)、酒井右京、松平舎人(謹慎の翌日自刃)等を逮捕あるいは監禁あるいは謹慎に処し、取り調べを開始しました。取り調べ担当家老は前年蝦夷地から帰還した酒井玄蕃了明が命ぜられました。庄太夫は自宅監禁に処せられましたが、雪隠(せっちん)で覚悟の自殺を遂げました。庄太夫は事件の中心人物とされ、死骸は埋葬を許されず塩漬けにされ自宅の庭に仮埋めにし、足軽に交代で監視させました。取り調べが進むにつれ養父の酒井右京が事件の首謀者であることが明白となったため、取り調べ担当の了明は辞任し、中老朝岡助九郎が取調掛となりました。
14 神保乙平へ庄内藩の情報を伝えた人物
 米沢藩士の雲井龍雄が神保乙平から情報を聞き出し、書き写した日記には、人名に多少の誤記があるのですが、日下部宗伯、深瀬清三郎、大山庄太夫、永原寛兵衛、松平舎人、酒井吉之丞、和田九城、加藤五三郎、赤沢準之助、佐藤茂太夫、吉田駒太郎、島屋伝左衛門等の名前と身分、年齢、召し捕り又は嫌疑の事情、当人の現況などが簡単な覚え書きとして書きとめられています。しからば神保乙平が雲井に伝えた情報をどのようにして入手したのでしょうか。
 『雲井龍雄 庄内藩探索紀行』によれば、神保は雲井に対して『こればかりは申し上げるわけにいかない。』とし、その代わり『年のころ30前後ばかり、少年の時に放蕩の振る舞いがあり、隠居したもののようだ。』と、また、『永原の親戚に神保乙平と懇意な人がいる。』と答えています。この「養父に不幸をして若隠居」になった庄内藩士に永原寛兵衛がいました。これらから乙平は、情報源は永原寛兵衛であり、これを龍雄が察してほしいと願ったものと考えられています。
 永原は酒井右京の秘書として終始影のごとく従った人物であり、当時における国学の権威者で、和歌にも長じていました。永原は1866(慶応2)年11月14日頃捕えられていますが、彼はこれより前に藩命で当該事件の探索方になったのですが途中で任務を放棄して酒田に赴き、乙平に自分の知る限りの話を伝えたとされます。
 雲井龍雄の日記は1867(慶応3)年3月28日の酒井右京の取り調べに筆が及んでいないので、2月上旬までの経過が、乙平から龍雄に伝えられていたとみられています。したがって、永原が前年の11月14日頃に捕まったあと、赤沢準之助らが江戸から鶴ケ岡に護送される1867(慶応3)年2月7日辺りまでは、乙平に情報を提供する者が別にいたと推察されていますが、これについては不詳です。
15 改革派に対する御仕置
 1867(慶応3)年9月11日は改革派に対する断罪と御仕置の日で、処罰は家族や親類にも及びました。各被告の断罪書によれば、事件の首謀者は大山庄太夫であり、酒井奥之助、酒井右京、松平舎人の三人はこれに加担したにすぎないとしていることが目につきますが、実際はこの三人の方針に基づいて動いたのが庄太夫で、罪状は主流派による作為であったことは明白です。
 この日の早朝、大山庄太夫の死骸の斬罪と御徒の深瀬清三郎、町医の日下部宗伯の死罪が萱場の刑場で行われ、午後には酒井右京の切腹が安国寺で実施されました。右京は自ら調査した古式によって、切腹には愛刀康光作の短刀を用い,介錯人には信頼する中村七郎右衛門を頼み、従容として切腹した右京の態度を見て人々は称賛を惜しみませんでした。一夜明けた9月12日の朝、『前夜半に酒井右京の亡霊が馬に乗り多数の部下を従え、武装に身を固め多くの高張提灯を先頭に江戸に上がった』という風説が死の街と化した様な鶴ケ岡の町に広がりました。この事件は長い間タブーにされていましたが、郷土史家阿部正巳(敬称略、8回・明治33年卒)著『庄内藩幕末勤皇秘史』によって解明され、全容が明らかにされました。主な処罰は次の通りでした。
16 断罪者とその処罰理由
 首謀者であった酒井右京は、安国寺で切腹,その遺骸は菩提寺である大督寺に葬ることを許されず、安国寺に埋葬されました。享年60歳でした。また、同家は千五百石のうち八百石が召し上げとなり、すでに亡くなっていた上野直記の家は断絶となりました。大山庄太夫の遺骸は腰斬という極刑に処され、その後、鳥居町の正覚寺に埋葬されましたが墓石の建設は許されませんでした。養子の春治は知行召し上のうえ親類へ押込となり、また、庄太夫の弟服部和助は八十石の内四十石が召し上となりました。永原寛兵衛、池田駒城、馬医佐藤収蔵、酒井奥之助嫡子酒井権七郎家来斎藤太夫は永牢となりました。
 日下部宗伯と深瀬清三郎が重罪とされたのは、日下部宗伯が大山庄太夫の同志で、自宅を密議所としたこと、江戸居住の同志に対する使者、池田駒城の路用を3回支弁したことであり、深瀬清三郎は同じく同志であって書を良くし、かつ学才もあり酒井右京等の命令に従って秘密書類を作成していたからです。二人とも享年63歳でした。
 死罪に次ぐ重刑は永牢でした。池田駒城は幼少のころから俊秀の評があり、長じて江戸に上がり儒学の大家安積良斎(あさか ごんさい)のもとで漢学を修め、安政の頃長崎に赴いて画人鉄翁に従い絵を習い、学才があって天下の情勢に通じていました。越後の志士村山半牧や酒田出身の本間軍兵衛、庄内の志士清河八郎らと交友を深め、深瀬清三郎の勧めで酒井右京、大山庄太夫ら公武合体派による藩政改革の企てに加担し、文久年間たびたび江戸・庄内間を往復して連絡役を務めました。服部毅之助の幕府に対する建白書も駒城の尽力により、当時勝塾にいた赤沢準之助に依頼し、海舟の手を経て申達したといわれています。1868(明治元)年に釈放され、蝦夷地の農兵引揚の任務に服しました。晩年は絵を描いて余生を送りました。
 永原寛兵衛は早くから才人の評判が高く国学の権威者であり書・和歌にも優れていました。酒井玄蕃に仕えて酒井右京、松平舎人、上野直記らが公武合体派による藩政改革を企てると同志となって活躍しました。(上)で述べましたが、藩から事件の探索方を命じられましたが、事件の露見を恐れて酒田に隠れ、神保乙平に情報を提供しますが、後に捕えられ、1871(明治4)7月、明治維新になったにもかかわらず釈放されず、獄中で病死しました。なお、後年永原の門人の関口正右衛門が彼の頌徳碑を菩提寺である常念寺に建立しています。
 斎藤茂太夫及び佐藤収蔵の両名は、町医日下部宗伯邸での密議に参画したということで永牢となりましたが、記録の詳細が存在しないようです。
 なお、赤沢準之助は1866(慶応2)年12月に勝安房塾で捕縛され、庄内に送られて投獄されましたが、大目付の尋問に抗して断食し、7月2日に獄中で餓死しました。享年29歳でした。準之助には三人の子がありましたが、長子は小笠原孫郎と称した後赤沢姓に復し、1893(明治26)年9月、荘内中学校の英語教師となり気骨ある教育者として知られました。
 また、国学者の広瀬巌雄(幽助)は大山庄太夫とは和歌の同人であったため容疑者として逮捕され、死罪になった清三郎倅深瀬廉之助と共に親類へ御預厳重押込(監禁)となりました。
 庄内藩に限らず各藩とも各時代において派閥抗争があったわけですが、庄内藩においても多くの流血を見、一方による他方の断罪が行われた騒動としては、「酒井長門守一件」とこの「丁卯の大獄(大山庄太夫事件)」が庄内藩の二大事件として挙げられるのです。12月になると庄内藩が中心となって薩摩藩邸の焼打ち事件を起こし、藩は佐幕派一色となって徳川幕府が瓦解しつつある中で、戊辰戦争へと突き進んでゆくことになります。
17 『維新前後に於ける庄内藩秘史』を著した人
 『維新前後に於ける庄内藩秘史』なる本は、大先輩の石井親俊(敬称略、12回・明治37年卒)が昭和42年7月3日に壹誠社から発行したもので、『雲井龍雄 庄内藩探索紀行』においても紹介されています。著者はこの本の自序において、大山庄太夫が大伯父に当たり、祖父が庄太夫の弟の服部和助で、母が和助の三女・辰であると自己紹介しています。そして大伯父と祖父の冤罪を晴らしたい一念で寄る年波に耐え、86歳の老体に鞭打ちつつこの本を著したと述べています。
 この祖父・和助という人物は、千葉周作の門に入り、剣を学びましたが、彼の一撃を防げるものが無かったといわれるほどの剣の達人であったため、忠発の認めるところとなります。そして、八十石に取り立てられ、護衛役として傍を離れることが無いほどになりました。このため、前述のように庄太夫が極刑に処され、庄太夫の養子の春治が「知行召し上げ、親類にお預け、厳重押込」となったときも和助は禄高を半減されただけで士分の地位を保つ事が出来たといいます。
18 「庄内藩幕末勤王秘史」を著した人
 丁卯の事件に関する当時の資料は全部隠滅されて手がかりをつかめずにいたそうですが、『雲井龍雄庄内藩探索紀行』に、前述の『維新前後に於ける庄内藩秘史』のほかに『庄内藩幕末勤王秘史』という著作があり、これらがなぜ書かれたのか、興味ある話が出ていましたので、このことを紹介してみたいと思います。
 大山庄太夫と共に行動していた上野直記の孫に当たる上野富之助宅から当時の真相を物語る文書や書類が、昭和になって沢山出てきました。これを聞いた大先輩の阿部正己(敬称省略、第8回、明治33年卒)は、上野富之助宅を訪問して資料の全てを譲り受け、これを基礎に『庄内藩幕末勤王秘史』という大著述をまとめ上げました。石井親俊は服部和助の息子である大策(石井の母・辰の兄)の子・服部剛治とともに阿部正己の出身地である松嶺に赴き、阿部正己から大伯父達の様々な話を聞くとともに服部剛治は阿部正己から大冊の原稿を譲り受けて東京に持ち帰えりました。出版の機会を夢見て、大川周作(敬称省略、第12回、明治37年卒、法学博士)や酒井奥之助の血筋に当たる酒井温理(おんり)から巻頭の序文を書いてもらったのですが第二次世界大戦の戦局は日本敗戦の徴候を濃くし、この原稿は南多摩の寺院の土蔵に預けられて難を逃れました。やがて第二次世界大戦も終戦となったのですが、戦後の生活は衣食住に追われ余裕が生じないまま、服部剛治は遂に阿部正己から譲り受けた原稿を鶴岡市立図書館に寄贈します(11冊に分冊製本されており、手書きの原稿です。)。これについて『雲井龍雄庄内藩探索紀行』の著者高島 真は、『服部剛治が鶴岡市立図書館に寄贈した原稿は、阿部正己が『庄内藩幕末勤王秘史』の初稿を更に時間をかけて書き改めたものに違いない。』と推察しています。
 一方、石井親俊は自ら老いに鞭打ち、大山庄太夫の事績を中心に『維新前後に於ける庄内藩秘史』を刊行するのですが、本の冒頭において『これはもともと阿部正己氏の『庄内藩幕末勤皇秘史』に寄せた序文だが、両先生の了解を得てここに転載した。』と断りつつ法学博士・大川周明、青山学院大学教授・酒井温理の序文を掲げています。戦前の鶴岡では、御家禄派が全盛であったといわれていますが、この時代に大川周明、酒井温理の両名は『庄内藩幕末勤皇秘史』に序文としてどのような思いを寄せたのでしょうか。丁卯の大獄に関する部分の抜粋要約して紹介します。
 なお、阿部正己は、服部剛治に譲り渡した『庄内藩幕末勤皇秘史』のほかに、初稿と思われる同じ題名の原稿を、郷里の「松山」を崩した「木公山人」なるペンネームを用いて1933(昭和8)年11月7日から1935(昭和10)年2月26日までの間、山形新聞に連載しました。山形新聞への連載第1回の「はしがき」のなかには、『庄内藩は明治維新に当たり、佐幕派が勢力を占めて官軍と戦ったので、維新前の勤皇派の事績は、外に発表することを禁じ、隠滅を図ったのである。そのため、勤皇派が最後に断罪に処された慶応を去ること67年を経た今日に至るまで、このような事件のあったことすら知らぬ人が多い。また、知っている鶴岡の古老は、直接に見聞した人々であるに関わらず、今日なおこれを口にすることを避けているのは奇怪というほかない。いま、この秘史を発表するに当たって一言すれば、この事件の真相を書いてみたいのは言うまでもないが、なるべく易しく楽に読めるように書くつもりでいる。しかし、史実を誇大に、或いは作り変えて書くことは厳禁するところである。』と書いていました。
19 大川周明の序文
 大川周明の序文を要約すると次のようになります。
 『慶応3年丁卯(ちょうぼ)の庄内藩大疑獄は、予が荘内中学校の生徒だった少年時代に耳にした。だれも委細の説明をしてくれなかったが、首魁大山庄太夫の屍体が塩漬けにされ、ほどへて髭谷地の刑場で腰斬りの刑に処せられたと聞き、支那の古代では珍しくはないが、日本では稀有の残虐事件であると戦慄したのを記憶している。後に白井重士翁(注))からこの事件の内容を拝承した。それによれば、従来藩主暗殺を企てた大反逆人とだけ聞かされていた松平舎人、酒井右京、酒井奥之助、大山庄太夫ら一派は、実は公武合体論者で、この目的に添う藩主を擁立しようと企てたが、事は未然に露見し、佐幕派から徹底的に掃討されたと云うのだ。予は大なる興味をもって翁の語るを聞いた。明治維新の後、庄内を指導した人々が公武合体派を殲滅し去った佐幕派であるため、大疑獄の真相は何事も発表されず、古老もこの事件に触れることさえ遠慮するわけも、初めて明らかになった。それなのに最近、大山庄太夫の子孫である服部剛治、石井親俊両氏の来訪を受け、阿部正己氏執筆の『庄内藩幕末勤王秘史』の原稿を示された。これは、丁卯の大疑獄を最も忠実に叙述したもので、一読して積年の雲霧は一朝にして消散するのを覚えた。犠牲となり、恨みをのんで地下に眠る英霊は、この書の刊行ではじめて慰められることであろう。予はいろいろな意味でこのたびの刊行を喜び、求められるままに蕪辞(ぶじ:謙譲語で粗末なことば)を連ねた。』
(注) 元鶴岡市長白井重麿(敬称略、第39回、昭和6年卒)の叔父に当たり、陸軍少佐でした(フリー百科事典Wikipedia)。
20 酒井温理の序文
 次に酒井温理が序文で述べているところを抜粋して纏めると次の通りです。
 『1897(明治30)年5月1日、伯父大山恒可が千葉県銚子で客死すると、親戚協議のうえ、従弟の酒井慎次郎を恒可の死後相続人に立て、大山姓を名乗らしめた。その際、初めて、私は、彼の(鶴岡市鳥居町の正覚寺にある)無名の墓が大山庄太夫の墓であり、伯父恒可は、庄太夫の養子となったのであることを知った。而して藩内の名門家たる我酒井家から、二人までも反逆者の後継者を遣わしたのは腑に落ちない。そこに何か深い理由があろうと私は考えていた。其の後に至って、私は奥之助直方が庄太夫と親交があったことを知るに及び、大山事件其物にも多少関与して居た事なども聊か(いささか)耳にする処あった。恒可の死後相続人として慎次郎を重ねて大山家に入れたのは、如何なる理由であったか、私は事件の諒解に苦しんだ。そこで、私は、大伯父、及祖父の人格を信じて、大山事件なるものが、果たして反逆的行為であったかどうか疑わざるを得なくなった。
 大正13年2月29日、此の謎が未解決の儘父直温が逝去した。続いて、此の事件の概様を知って居った年配の親戚も他界し、私は、此の事件に関する手懸りを全く失い、実に遺憾に堪え難く感じて居ったのである。時偶々(ときたまたま)郷土史の研究家、阿部正己氏の多年に亘る研究の成果として、『荘内幕末勤王秘史』なるものが世に出たのである。此書によれば、是迄反逆事件として取り扱われて居った、所謂(いわゆる)大山事件なるものは、何ぞ図らん、勤王の精神に基づきてなれる藩政の郭清運動(かくせいうんどう;悪いものをすっかり取り除く運動の意味です。)であって、藩公暗殺の陰謀では、全然なかったことが判明した。而して大山庄太夫も、荘内藩を大儀に就かしめんとの努力に殪れた(たおれた)愛藩家であり、尊皇家であった。更に大伯父奥之助(直方)も庄太夫と志を同じにし、松平舎人、酒井右京等と共に、大いに活躍した達人であったことも、阿部氏の麗筆に寄り明瞭となった。実に痛快である。学者として藩内に名声のあった祖父権七郎直鳳も当運動に対し、相当の認識のあつたことも、推察するに難くない。伯父恒可を庄太夫の養嗣とすることを承諾したのは、この間の経緯を言外に語るものであろう。』
21 酒井奥之助家と大山庄太夫家との関係
 『維新前後に於ける荘内藩秘史』の酒井温理の序文からその関係を要約すると次のようになります。すなわち、幼少時を鶴岡市鳥居町で過ごした酒井温理青山学院大学教授の曾祖父が前述の庄内藩家老・酒井奥之助(直方)に当たります。奥之助は、酒井右京、松平舎人、大山庄太夫、上野直記等と公武合体を基調とする藩政改革運動に挺身したのですが、途中病のため没しています。奥之助の庶子・権七郎(直鳳)は温理の祖父に当たります。この権七郎直鳳の庶子(長男)・恒可が大山庄太夫の養子となり、大山春治として家督を相続しました。温理の父は、直温といい権七郎の子に当たりますので、従って、温理にとって春治は伯父に当たるわけです。前述の通り大山家に遣わされた慎次郎は早く北海道に渡り、晩年帰省し東田川郡大鳥村に居住したということです。
22 正覚寺にある大山庄太夫の墓
 ワッパ騒動義民顕彰会事務局長の星野正紘さん(61回・昭和29年卒)から鳥居町の正覚寺には大山庄太夫の墓があり、門前には「大山庄太夫を偲ぶ会」が建てた説明板があることを教わっていましたので、私も2001(平成23)年5月25日、鶴岡に行った機会を捉えてこの説明板を確認するとともに大山庄太夫の墓に参ってきましたが、庄内藩幕末勤皇秘史』によれば、1943(昭和18)年5月22日、服部剛治が剛治の従兄弟である書道の大家・松平穆堂(注)の揮毫による墓碑を新しく建設するまで自然石の無銘の墓で存在していたとあります。本堂の裏手にあるその墓の正面には、「大山庄太夫之墓」、右側面には「昭和18年5月服部剛治建之」、左側面には「法名国成院居士 慶応2年11月14日 連座公武合體派自刃」と刻んでありました。また、山門前の説明板は同窓の黒羽根洋司さん(72回・昭和40年卒)が2002(平成14)年6月、先祖の霊を供養するとともに設置したものであることも分かりました。説明板には次のように記載されています。
                 大 山 庄 太 夫
 庄内藩士・大山庄輔(北李)の長男として1808(文化5)年、江戸に生まれる。才気に富み、先見の明と卓越した行動力で十代藩主酒井忠器の信任を集め、栄進・加増を重ねる。やがて、江戸留守居役を13年間にわたって務めた。この間に起こった天保の国替え(長岡転封)事件では幕府の転封撤回に尽力し、庄内藩勝利の立役者となる。その後も政治的手腕を発揮し、庄内に大山庄太夫ありとの名声を博するようになる。 幕末の国内外の情勢をいち早く見通し、徳川譜代大名の酒井家にあって、朝廷と幕府が協力して国難にあたるという「公武合体論」を唱える。同志とその実現に奔走するが、藩を二分する政争に敗れ、1866(慶応2)年11月14日、自宅拘禁中に自刃する。死骸は塩漬けとなり、断罪を待って翌年茅場の刑場で腰斬りの刑に処せられる。享年59。墓所は本堂の裏にある。
                                     平成14年6月
                                     大山庄太夫を偲ぶ会
                                     (代表 黒羽根 洋 司)
                                     十劫山・正 覚 寺
(注)  大山庄太夫の弟の大山和助には、長男大策、長女豊、次女清、三女,辰の子供達がおり、大策の子が服部剛治、清の子が松平穆堂であり、従って、剛治と穆堂は従兄弟同士になります。また、和助の長女豊が黒羽根洋司さんの曾祖母に当たります(フリー百科事典Wikipedia)。


2012年3月2日