雲井龍雄の庄内藩探索(下)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
雲井龍雄の庄内藩探索(下)
23 龍雄、外交・探索方として京都へ上る
 1867年(慶応3)2月(陽暦では3月)の月末、庄内藩の探索から米沢に戻った雲井龍雄は、その年の秋ごろ、今度は藩命により外交・探索方として京都に赴きます。この頃、いわゆる政府軍の攻撃目標は、幕府と会津・庄内の両藩でしたから米沢藩については、それほど緊迫したものではありませんでしたが、倒幕派が渦巻いている京都の状況をつぶさに探索していました。後に意見が対立することになる土佐藩の後藤象二郎との交わりも深かったようです。
 10月には、徳川将軍慶喜が「大政奉還」し、12月には「王政復古の大号令」によって新政府が成立しました。この月、庄内藩の「薩摩藩邸襲撃」の報をうけて米沢藩は戦闘隊1400人が徳川慶喜の在陣する大阪に向けて出発するのですが、1868(明治元)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れ、慶喜は大阪から江戸に戻り、新政府に対して恭順の意を表明して上野寛永寺で謹慎生活に入ったとの報が伝えられると米沢藩は急遽福島から軍を引き返しています。
24 龍雄、貢士に推挙される
 「王政復古の大号令」によって総裁(有栖川宮熾仁親王が任ぜられ国政を総理しました。)・議定(多くの皇族及び公卿らが就任しました。)・参与(岩倉具視以下の公卿に加えて尾張、越前、広島、土佐、薩摩の5藩士らが着任しました。)の三職からなる新政府が樹立されましたが、同時に藩と新政府とをつなぐものとして「徴士(ちょうし)」、「貢士(こうし)」の制度が設けられ、翌1868(慶応4)年正月、龍雄は藩から貢士に推されます。貢士というのは、全国各藩から推薦された新政府の議政官のことで、才能によっては、徴士に昇格することが出来ました。雲井龍雄は、米沢藩を代表して政治に対する意見を述べる身分になるとともに中央や諸藩の情報を随時米沢藩の上司に送れることになったのです。龍雄25歳の年でした。貢士就任は、門閥の士を差し置いての抜擢であり、その才幹が藩内外を問わず広く知られていたことを示すものです。なお、徴士は藩・民間から登用して官吏に任命した者の呼称で、貢士の人事権が藩主にあったのに対して徴士の人事は朝廷にあり、その職務は徴士のほうが重かったのです。
 このような情勢の中、龍雄の目には、新政権は大政を奉還して恭順を示す将軍を自らの勢力を強固にするために、あくまでも討伐しようとするように見えました。正義感が強く純情の詩人でもあった龍雄は、諸外国が虎視眈々と日本をわがものにしようとしているときに、国家の政治が一部の藩の横暴によって内乱を招くことは許されないと考え、朝廷に3回にわたって意見書を提出し、全国から有為の人物を集めて公正な政治が行われるよう請願しましたが成功しませんでした。
25 戊辰の役と討薩の檄文
 そのうちに討幕軍が江戸に向かい、結局1868(明治元)4月11日には江戸城は無血開城となりましたが、薩長を主体とする東征軍と奥羽地方の各藩との間に戊辰の役が始まります。5月になると龍雄は京都を出立し、東海、関東を経由して帰藩し、6月には戊辰の役の越後戦線に参加します。彼が加茂で米沢軍の総督の色部長門に会い、奥羽越諸軍の反薩気勢を高めるために「討薩の檄文」を作成したことは有名な話です。この檄文は、龍雄が京都で活動しているとき、薩摩藩の横暴を目にして、薩摩の一連の主張や行動を痛烈に批判したものでした。8月には、同志たちと迂回して群馬県の上野須賀川に赴きますが、沼田・前橋・小幡の軍に敗れ、南会津を経て米沢に帰ります。薩長の藩閥政府を批判し,徹底抗戦を主張しますが龍雄自身は直接戦闘に参加せず主として諜報活動を行いました。
 米沢藩主上杉斉憲(うえすぎ なりのり)は、親戚筋に当たる土佐藩(土佐藩山内家から6代藩主宗憲、12代藩主斉憲それぞれの正室が嫁いできています。)の周旋で仙台藩と共に帰順の意を表し、9月2日に降伏します。そして9月18日、米沢藩は庄内藩を討つことを命じられ、龍雄も寒河江、白岩、宮宿に出動します。9月8日には世は明治と改元、新政府は君主が一代の間は同じ元号を使い続ける「一世一元制」を定めます。9月22日の会津落城に始まり、24日の庄内藩の降伏で奥羽における戊辰の役は終わりました。
 龍雄にとって、米沢藩が奥羽越同盟的な存在にありながら、約に背いていち早く降伏を請い、盟友会津や庄内藩を救済せず、かえって政府軍に従って攻撃に回ったことは、抑えがたき痛恨でした。彼の立場からすれば函館によって抗戦する榎本武揚こそ「義」を持って立つ真の武士として仰望されていたのです。ただ、彼の真意は、徳川政権の回復を意図していたというより、「王政」の掲げる新政の監視とそれを妨げるもの、すなわち薩摩を倒し、列藩が和解することが念願であったといわれます。しかし、積極的な新しい政権構想は無かったようで、それだけに薩長専制が
26 龍雄集議院の寄宿生に
 龍雄は米沢藩の行動に異議を感じていましたので、藩の処分に坐して謹慎しますが、まもなく解かれ、1869(明治2)年正月、26歳のときに興譲館2カ年定詰勤学を命じられました。しかし、6月下旬に退館し、8月、東京に赴きます。それより前の5月18日、北海道五稜郭が陥落し、榎本武揚等が降伏します。
  9月20日、日向飫肥藩(ひゅうがおびはん)出身の稲津 濟の世話で明治政府より集議院の寄宿生に米沢藩を代表して任命されますが、龍雄をかつての叛賊と讒(そ)しる者がおり、10月半ばに退院します(正式には翌年正月28日に免職状を受けます。)。なお、集議院というのは、「万機公論に決すべく」というスローガンのもとに1869(明治2)年7月に従来の「公議所(議会)」を改称した機関で、議員は府県藩の大参事から選出され、任期は4年、2年ごとの半数改選でした。ただ、公議所が議員による議案提出権を有していたのに対して、集議院は政府提出の議案を審議する機能しか持たず、その意味では諮問機関でした。集議院の寄宿生は、「集議院中、別に一局を設け、天下の進言、建策有用の材を総部、寄宿せしめ、その徳行、才能を考試すべき事」という集議院規則第28条に基づく機関の一員で、席次は議員に準じ、議決権は有りませんが議事に加わることは出来ました。
27 帰順序部曲点検所を開設そして処刑
 退院した龍雄は幾多の旧藩の浪士や在野の人士に会い、戊辰の役によって主家から離れ、浪々する敗残の士の世話に乗り出しました。1870(明治3)年2月10日、東京芝二本榎の久留米藩有馬中邸の一部を借りて、明治政府宛てに在野人士の兵士採用を願う嘆願書草案に着手します。そして2月22日、次いで3月11日に嘆願書を提出します。そのうえで久留米藩有馬中邸の隣の円真寺と上行寺に移り、明治初期の最大の社会問題である「藩籍奉還」によって溢れかえった浪士達を纏め、彼らをもって朝廷に仕える一軍を組織することを思いつきます。ここに会津藩士・原 直銕らと「帰順序部曲点検所」の看板を3月に掲げますが、先の嘆願書は政府に悉く拒否されてしまいます。「帰順序部曲点検所」設置の名目は、失業者の保護と順次帰国を促すこと、新政府への「天兵」としての斡旋等でしたが、龍雄の真意は、浪士達の単に天兵への採用ではなく、彼らが天兵として武器を所持したならば、転じて一挙に現政権を打倒するところにあったとも言われています。浪士達の人数が増えるとともに有象無象の輩も増えて行き、龍雄の部曲だけで1200人余、他の部曲を入れて8000人を超えたとき、新政府もこれを黙視することが出来ず、5月13日、太政官から米沢藩に対して『雲井龍雄を藩地米沢に引き取り、厳重取り締まれ』との達しが出され、翌日彼は米沢に護送されるとともに「帰順序部曲点検所」にいた全員も拘束されます。そして、大久保利通は龍雄と関係する者の処断の決を下ろし、8月5日、太政官の達しにより雲井龍雄は東京に送還され、18日に小伝馬町牢獄に収監されてしまいました。次いで、26日にこの事件に対する処分が発表され、早速28日、関係者の処刑が行われました。一件に連座する者実に70余名、雲井龍雄を初めとして斬刑13名(他に斬刑のところ牢死者2名、生存なら斬刑に当たる者5名)に及ぶ大疑獄でした。しかも龍雄は梟首となりました。享年27歳で小塚原刑場の露となったのです。しかし、死罪の証拠となった政府転覆の会合もほぼすべてが政府側の捏造ともいわれておりますが、これだけの在野の勢力を結集させた雲井達雄の力量を明治初期の新政府は到底受け入れるわけにはいかず、従って、新政府として最初の見せしめの斬首を断行したのです。
28 龍雄の辞世
 次に龍雄の有名な辞世を次に紹介しておきます。
 死不畏死(死して死を畏(おそ)れず)
    ・・・自分は死ぬに際して死を恐れない 
 生不偸生(生きて生を偸(ぬす)まず)
    ・・・まして意味もなく生きながらえようとも思わない
 男兒大節(男児の大切は)
    ・・・男子の大儀というものは
 光與日爭(光(かがやき)日と爭(あらそ)う)
    ・・・太陽の輝きにも負けぬくらい輝かしいものである
 道之苟直(道之(これ)苟(いやし)くも直(なお)くんば)
    ・・・もし自分が信じている道が正しいのであれば
 不憚鼎烹(鼎烹(ていぼう)を憚(はばか)らず)
    ・・・釜茹でになってもかまわない
 眇然一身(眇然(びょうぜん)たる一身なれど)
    ・・・取るに足らないこの身であるが
 萬里長城(万里の長城たらん)
    ・・・わが心は万里の長城となってこの国の行く先を守るであろう
29 明治憲法発布の大赦による龍雄の罪の消滅
 1889(明治22)年、「明治憲法を発布するに当たり発せられた勅令第12号大赦により、処断を受けた雲井龍雄の罪は消滅する」旨の大審院検事長の証明書が3月15日付で発行され、龍雄の罪は消滅しました。
なお、1879(明治12)年1月31日に強盗殺人犯である「高橋お伝」に対して最後の斬首刑が行われましたが、1880(明治13)年には刑法で「死刑は絞首刑」と定められ、さらに1882(明治15)年1月1日に新刑法で斬首刑が全面廃止となりました。


2012年4月3日