やっと桜が咲きました
1 はじめに)
今冬は例年になく寒さが厳しく降雪量も多かったうえに4月3日から4日にかけては、爆弾低気圧という超大型台風以上の強風が日本列島を縦断し、季節外れの低温に襲われるなど散々な目に遭いましたが、山形地方気象台は、23日、やっと山形における開花宣言を出しました。平年に比較して8日遅れ、昨年の19日と比較する5日の遅れでした。開花が非常に遅く感じたのは、ここ数年、今年の春ほど花の咲くのを待ちこがれた年は無かったためだと思われます。そんなことで、今回は桜について思いつくままに纏めてみました。
2 「さくら」は穀霊の集まる依代(よりしろ)
桜は、開花するや否や一斉に咲き、しかもわずか2週間程度という短い期間で散るため、毎年、人々に強い印象を与え、春に対する季節感を形成する重要な風物となっています。春の訪れを待ちわびた人々にとって桜の花を観賞しながらの「花見」は、昔から人々の楽しみでした。ただ、桜は、冬から春の、季節の変わり目を示す自然の暦であり、従って、自然現象が生産生活に直接関わる農村では、花の開くのを待って籾種を播く「苗代桜」と呼ばれる桜が各地にあります。また、花の数の多少によってその年の豊凶が占われる「世の中桜」と呼ばれる桜(エドヒガン)が徳島県にあり、いずれにしても桜は農耕と深く結びついています。「さくら」の「さ」は、穀物の霊を表す古語で、「くら」は神霊が鎮座する場所を意味し、「さくら」で、穀物の集まる依代を表すという説がありますから古の人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではありません。また、全日本大百科全書小学館の『花見』によれば、花見は、もとは、農事の開始に先立つ「物忌み」のため、屋外に臨時の竈を設けて飲食する行事であったといいます。物忌みのために自家に忌み籠りするだけでなく、他の特定の場所に出掛けることもあったようで、「山遊び」、「磯遊び」、「三月場(三月場)」、「ひいな飯」,「かまこ焼き」などともいうそうで、例えば、岩手県上閉伊(かみへい)郡のかまこ焼きは3月3日の行事で、子供達が10人前後の組を作り、河原にかまどを築いて煮炊をして一日中遊ぶ習わしがあるそうです。
3 花見とその歴史
その昔、花見といえば、奈良時代においては梅を愛でる大陸の文化に貴族達が憧れたため、中国から伝来したばかりの梅が観賞されていました。しかし、平安時代になるとヤマザクラ、ヒガンザクラなどの野生の桜が都市部に移植されて観賞されるようになり、9世紀前半には、嵯峨天皇が南殿に桜を植えて宴を開催したといわれています。
『万葉集』において桜を詠んだ歌は44首、梅を詠んだ歌は 118首だそうですが、これが、平安時代の『古今和歌集』では桜が70首、梅が18首とその数逆転しています。そして、やがて「花」といえば「桜」を意味するようになり、桜を観賞しての宴も天皇主催の定例行事として取り上げられるようになりました。その様子は『源氏物語』の「花宴」に『源氏が20歳になった年の2月20日過ぎ、紫宸殿で花見の宴が催され、源氏と頭中将は、人々の賞賛の的となる舞を舞い、夜には漢詩の披講(漢詩を詠みあげることです。)があって、そこでも源氏は素晴らしい詩才を示した。』旨の記述があります(『一日で読める源氏物語』(吉野敬助、PHP 文庫、2010年9月17日第1版第1刷))。また、『徒然草第137段』(吾妻利秋訳)には『・・・桜が咲き乱れる春は、家から一歩も出なくとも、満月の夜は、部屋に籠っていても、妄想だけで気持ちを増幅させることは可能だ。洗練された人は好事家には見えず、貪ったりしない。中途半端な田舎者ほど、実体だけをねちっこくあり難がる。桜の木の根本にへばりついて、身をよじらせ、すり寄って、穴があくほど見つめていたかと思えば、宴会を始め、歌にコブシを震わせたあげく、太い枝を折って振り回したりする始末である。すんだ泉に手足をぶち込むし、雪が降れば、地面に降りて足跡を付けたり、自然をあるがままに、客観的に受け入れないようだ。・・・』とあって、貴族風の花見と田舎者の花見の違いが説かれており、室町初期には地方の武士階級にも花見の宴が行われていたようです。
織豊期には絵画資料から野外に出て花見をしていたことが分かりますが、慶長3年(1598)3月15日に豊臣秀吉が近親の者をはじめとし諸大名とその配下の者達1300名を従えて盛大に催した「醍醐の花見」は、余りにも有名な話です。なお、余談ですが秀吉はこの催しの約半年後に没しています。
花見の風習が広く庶民にまで広まっていくのは江戸時代になってからですが、3代将軍徳川家光は、寛永2年(1625)に上野寛永寺を建立し、千本桜で有名な吉野山の桜(白ヤマザクラ)を植栽しました。また、同時に隅田川河畔にも植栽をしています。吉野山の桜は今から約1300年前、修験道の開祖役行者が吉野山で修業し、蔵王権現を感得し、これを桜の木に刻み祀ったとの伝承から神木として保護され、その後信者らの献木を徐々に植樹し、現在の約3万本に至ったといわれています。現在でも毎年桜の苗木を育て、これを植栽する「桜守」と呼ばれる人がおるようです。更に、享保年間(1716〜1735)には、8代将軍徳川吉宗(1716〜1745)が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励しました。それ以来、品川御殿山、飛鳥山、向島、上野、浅草、小金井等が江戸の桜の名所となります。このように都市近郊の社寺境内に人工的に桜を植えたのは、江戸の遊びは近郊の神社仏閣への遠出の散歩や花見などのピクニックが人気で、それは、人々が自由に、日常の規制から解放されて楽しむためには、行楽地と日常生活とは別の次元に属することが必要であり、社寺がその要件を一番満たしていると考えられたからです。花見の季節には、大名も町人も花見弁当や酒器を持って桜の名所である山野に繰り出し、無礼講で酒と音楽と踊りに興じて、特に町民たちは、より自己解放を遂げようとしました。
なお、花見には「花見団子」が付きものです。庶民の花見にふさわしいお供として江戸時代から定番となったといわれています。月見で食する「月見団子」と対照的に、桃色、白色、緑色などの色で華やかな色彩を施すのが本来で、桜色は桜そのものを表して春の息吹を、白は雪で冬の名残を、緑は蓬で夏への予兆を表現しているのだそうです。
江戸時代末期になるとオオシマザクラとエドヒガン(エドヒガン系のコマツオトメとの説もあります。)との交配種であるソメイヨシノが登場し、明治以降あっという間に日本全国に広がって行きました。
4 ソメイヨシノの人気
ソメイヨシノの人気の理由については1936年(昭和11)、東京市の公園課長を勤めた井上清が次のように言っていますので紹介します。
@樹形が美しい。均整のとれた扁平型で老木ともなれば枝が垂下して短く太い幹を覆う姿が美しい。
A成長が極めて早く10年にして立派に花として観られ、20年にして荘観を呈し、30年にして名木の姿となる。
B花は一重であるが淡紅大輪にて花梗(かこう:花の柄になっている部分のことで、花だけを付ける茎や枝(花軸)から出て、末端に花をつけます。)長く、蕾は濃紅で花梗も紅色を帯びるので、咲き始めは色濃く、満開に至って淡色となり、散り際に至って花底より更に紅を差し始める。
C若葉を混えず全く花のみが密生して樹枝を覆う壮観は八重桜に優るものがある。
D繁殖は接ぎ木法でしか増やすことが出来ないが、活着容易で価格は他の桜よりも低廉である。
E「吉野桜」という名称で明治初年における宣伝が良かった(注1)。
(注1)当初桜の名所の吉野山にちなんで「吉野桜」と呼んでいたましたが、1884(明治17)〜1886(明治19)にかけて上野公園の桜を調査していた東京帝室博物館(現東京国立博物館)の藤野寄命(ふじのよりなが)博士が1900年(明治33)、吉野の桜は「ヤマザクラ」なので、これと区別するため「染井吉野」と命名し、『日本園芸雑誌』に発表しました(『遺伝16(1):26−31,1962』(国立遺伝研究所、竹中 要)。
5 花見の科学
ところで、山形放送の毎週土曜日の午後5時からの番組に『所さんの目がテン』というのがあります。2年ほど前のこの番組で「お花見の科学」というテーマの放送があり、記録をとっていましたので、その概要を紹介したいと思います(放送日:2010年(平成22)3月27日)。
ここでは、@「花見といえばなぜ桜なのか」、A「桜の木と梅の木との違いはどこか」、B「花見はなぜ長時間にわたるのか」、C「花見はなぜ茣蓙あるいはブルーシートの上で車座により行われるのか」について、実験を通して科学的考察を試みていました。
@及びAについてですが、花見の由来は前述のとおりですが、桜が日本人に好まれる理由があるようです。つまり、梅は、桜と同じようにバラ科に属しますが、梅の花が枝に直接付くように咲くのに対して、桜は、一つの蕾から3ないし4の花を付け、しかも、それぞれの花が互いに触れ合わないように長い柄を下げ、その先に花をつけます。さらに、梅の花が上向きに咲いたり、下向きに咲いたりするのに対して、桜は全部下向きに咲くということが分かりました。この結果から桜の木の下での花見は、前述のとおり見る人に花のボリューム感を印象付け、気分的に満足感を与えてくれるようです。Bについてですが、これは東京の春(花見時期)の平均気温10度と夏7月の平均気温25度下におい2時間ほどビールを飲み比べる実験をしたところ、春は平均8.3杯、夏は平均4.3杯という結果が出、しかも夏の場合の方が、バランスボールの上に乗っている時間計測からみると、より酔っているという結果になりました。これから、外気温度が低い方が、体温維持のため、体内に入ったアルコールを次々に熱エネルギーとして消費するため、アルコールの摂取量が多い割に酔っていないということが判明したのです。したがって、一般的に花見は、外気温が低いにもかかわらず長時間の宴会時間を楽しむことが出来るという結果になりました。Cについては、世代の異なる男女3人のグループをチェアーとテーブル、ブルーシートに車座の2組に分け、2時間の宴会を行い、その間グループの参加者の名前を覚えさせるという実験でした。ブルーシートチームは、一人がトイレに立ったのを契機に席かえが行われ場が大いに盛り上がり、かつ、2時間後に参加者の名前をすべて覚えていた人が7名いたのに対して、椅子組は、グループが二つに分かれ、席かえも行われず、かつ、参加者の名前を全部覚えていた人がたった1人という結果となりました。これから見ても花見は茣蓙あるいはブルーシートに車座を組んで行った方が盛り上がり、かつ、皆が一体となることが証明されたのです。
6 野遊びと花見
一方、昔から日本では、花見のほかに、「野遊び」、「野掛けまたはたんに「遊山(ゆさん)」と呼ばれる郊外の春色を楽しむ行楽が行われており、この行楽でも花見と同じように遊宴が催されました。これらの行楽を一括して「野遊び」とすると野遊びでは、郊外の野を歩き、丘に登り、或いは野原や河原に行って、春の訪れによって生気を取り戻した自然の風光を楽しみます。雲雀や鶯の声を耳で楽しみ、菫や蒲公英、躑躅や桜等の花を眺め,土筆や片栗や蕨などの山野草摘みに興じます。それは都市生活者にとって季節を体験すると同時に自然に接する楽しい機会でした。この遊山とは、本来、禅宗の言葉で仏教用語でした。「遊」は自由に歩き回ること、「山」は寺のことで、修業を終えた後、他山(他寺)へ修業遍歴の旅をすることをいいました。転じて山野の美しい景色を楽しみ、曇りのない心境になることを意味するようになり、それが一般にも広まって、気晴らしに遊びに出掛けたり、山野で遊ぶ意味になりました(語源由来辞典、インターネット)。
『江戸の花見』(小野佐和子、築地書館(株)、1992年4月10日初版発行)によれば、山形市郊外の千歳山も野遊びの場所で、春には大勢の宴を開く人々で賑わったとあり、天保13年(1842)のちょぼくれ『苗売』(注2) (『藤岡屋日記』(注3) 二、31書房、1988年(昭和63))265頁から引用したとしてその様子を次の様に紹介しています。
山形の東にあってちトセ山といへるあり・・・・春はちトセ山の辺又は馬見が崎、から松の観音など殊の外賑わい、此近辺の人々酒肴をたずさへ、幕など打廻し、三味線哥(うた)浄るりなど高音をそうして遊び上しては老若となくおどり、狂言などま々あり。 |
山形郊外の千歳山に登り、あるいは馬見ケ崎河原や唐松観音堂近辺に思い思いに幕を張り巡らして酒を飲み、三味線をならして大声で歌い、浄瑠璃をうなる、はては酔った勢いで、老いも若きも舞い踊り、時には芝居も行われ、春の一日、すべての人々が一体となって歓楽を尽くす様がここに描かれています。
野遊びは、花見と同様に春の季節に、年齢、性別、社会的身分にかかわらず、人々が郊外に出て宴を開き遊ぶという点で共通するのですが、野遊びは必ずしも花を観賞することを第一の目的としてはいません。花見の花の名所が花によって特徴付けられるのに対して、野遊びの場所を特徴付けるのは見晴らしの良さです。菫や蒲公英、躑躅や桜等の花々は野遊びの場所にもあるのですが、そこでの花は、春の風景の一部として捉えられているにすぎないのです。
(注2)江戸時代、老中水野忠邦の厳しい天保の改革によって、火の消えたようになった江戸市中において、「いろんな文句の『ちょぼくれ』」、すなわち幕政批判の歌が流行しました。それは、「・・・売り」という題の「ちょぼくれ」で、たとえば「苗売り」として、
「苗や苗や、苗はよしか、初物の茄子の茄子がない、胡瓜がない、隠元豆のもやしがない、白粉あんまり塗り手がない、このせつ師匠の花見がない、浄るり新内寄場がない・・・」の様な歌がうたわれました(『井伏鱒二における中間小説』、高木伸幸、インターネット)。
(注3) 江戸時代末期、江戸を中心とした事件や噂等を須藤(藤岡屋)由蔵が詳細に記録した日記を編年で纏めたものです。全152巻150冊あり、採録時期は文化元年(1804)から明治元年(1804)までの65年間に及びます。原本は1923年(大正12)の関東大震災で焼失したそうです。
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