●日本文学研究者 ドナルド・キーン氏

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
日本文学研究者 ドナルド・キーン氏
 東日本大震災を契機に日本を脱出する外国人が相次いだことに憤慨し、日本国籍を取得して永住を決めた日本文学研究者のドナルド・キーン氏。25年前に鶴翔同窓会の人脈を通じて山形市で講演をしてもらうことができたことを思い起こします。
 民放の経営者らが年に一度一堂に会して放送の公共性と社会的な使命について決意を新たにする全国民間放送大会が昭和62年10月に山形で開催されることが決まりました。当時山形県の民放はYBCとYTSの二社、一年前に両社で実行委員会を組織して準備に入り、大会にふさわしい記念講演の募集が社内でありました。著書「百代の過客」を上梓、日本文学大賞・読売文学賞を受賞して間もないコロンビア大学教授ドナルド・キーン氏にお願いできないだろうか当時県企画調整部長だった冨塚陽一氏(前鶴岡市長)と余暇開発センター研究主幹の松田義幸氏(尚美学園大学理事長・学長)に相談。「一年の半分はコロンビア大学で講義のためニューヨークに滞在、10月ならば日本におられる。大会は一年後なので今から日程に組み込んでもらえば実現可能ではないか」という助言をもらいました。
 そこで実行委員会に提案したところ採用になり、講演依頼の交渉を命ぜられました。すでに冨塚・松田両氏からドナルド・キーン氏にお話があったこともあり、電話と講演依頼の書面を郵送するだけで快諾を得ました。
 加盟139社から800人出席して市民会館で開かれた大会でドナルド・キーン氏は「日本文学と奥の細道」と題して講演しました。日本文学の特徴は日記文学にある。「奥の細道」は紀行文の最高峰で、与謝蕪村、高浜虚子はじめ多数の文学者は同じルートをたどったなど以後の文学作品に影響を及ぼした極めて優れた文学であることを読み解き、語りました。
 滞在三日間の案内担当はYTS番審委員長の小松清彦氏(関川病院院長)と二人。蕎麦を食べているときに「よく人は、忘れたとか記憶が薄れたというが不思議で理解できなかった。見聞きしたこと、学んだことは決して忘れない自負があった」とのこと。アメリカで日本語学校に通い11か月で日本語を読み書きし、会話もできるようになった頭脳の持ち主の話。「しかし最近は私も忘れたりするようになりました。きちんとメモをとるべきでした」と苦笑しておられた姿が印象に残りました。また三島由紀夫の著書の翻訳で、わからないことを電話や面会して聞くやり取りをしているうちに彼との交流が深まったことついても話してくれました。
 昭和36年の秋、私は「民俗芸能研究」の課題で演劇鑑賞のリポートの提出に迫られ、単位を落とすと翌春卒業できない事態になっていました。生来の怠け癖とアルバイトに追われていましたが、なんとか文学座の公演「十日の菊」の最終日に滑り込みました。主演は杉村春子、中村伸郎・岸田今日子らが出演。終演の幕が下りた後に三島由紀夫が観客席からさっそうとステージに登場。真っ白なズボンに真っ赤なシャツ、ボタンをはずし胸毛の見えるスタイルで感想をしゃべり始めました。当初なぜ彼が登壇したかわかりませんでしたが、三島由紀夫戯曲の初演作品とわかったのはしばらくしてプログラムを読み直してのこと。九月九日は菊に長寿を祈る「重陽の節句」、 一日遅れの「十日の菊」は時期に遅れて役に立たない。タイミングがずれると遅きに失するという内容を表現した演劇でした。それだけにドナルド・キーン氏の三島由紀夫との交流の話は鮮明に覚えています。
 三日間の滞在を終えて山形を離れる日に「平清水の窯元を見たい」との希望で青龍窯へ。梨のような肌合いの壺を膝にしっかり抱きかかえながら、長い指でしきりにその肌を愛でられ、味わい尽くすような姿。この日、著書「百代の過客」複数冊に署名してもらった小松氏が「私からプレゼントさせていただきます」と申し出て宅送の手配。日本の美を象徴する陶器が趣味というドナルド・キーン氏のコレクションに「平清水焼」が加わることになったのです。
  
2012年5月7日