我が家に一度だけ訪れた鶯

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
我が家に一度だけ訪れた鶯
1 私の住んでいる地域
 私の住まいは山形の北西方向、西田という所です。この地域は、北側はJR左沢線、東側は国道 120号線、南側は山形県道49号線山形山辺線(旧県庁から西方に延びる道)、西側も同じく山形県道49号線山形山辺線(いわゆる西回りバイバス)に囲まれた地域で、古い空中写真を見ると1956年(昭和31)当時は一部畑が混じりますが、大部分は水田地帯でした。1964年(昭和39)から宅地開発のための区画整理が始まり、整理終了地区から順に住宅建設が開始され、区画整理が終わった1968年(昭和43)に町内会が発足しています。そして、現在では区画整理地のほとんどが宅地化し、世帯数が930余、人口2,600余人を数える山形市内でも一二を争うほどの大きな町内会になっています。
2 突然の鶯の飛来
 私の屋敷はたかだか70坪で、北と西側が道路に面しており、南と東側は隣家の屋敷と接しています。竹垣に沿って植えたカイズカイブキ、ムクゲ、ツバキ、アジサイ、ボタン、ベニカナメ以外は茂みとなるものはありません。こんな庭に3年前の2009年(平成21)5月21日に何故か突然鶯がやってきたことがありました。西側の道路を隔てた向かいのお宅には、植えて10年数年を経たと思われる枝葉を大きく広げたシラカシの木があり、我が家に来る2,3日前には、突然その木の梢で鶯が「ホーホケキョ」と鳴き出したのです。今まで田植えの時期になると郭公がやってきて、電柱のてっぺんで鳴くことはありましたが、鶯の鳴き声を聞いたのは初めてでしたので、おやっと思っていたのですが、21日になって急遽自宅の南側の四つ目垣の前に植え込んだカイズカイブキの茂みの中で囀りだしたのです。本当に吃驚しました。この日は奇しくも私の誕生日でしたので、珍しいプレゼントに喜び、以来毎年の訪問を期待していたのですが、後にも先にも鶯の来訪はこれっきりの状況です。
3 鶯の生態
 私の認識では、鶯は山地の余り大きな樹木の生えていない、例えば良く登った蔵王の観松平のような湿原の傍で比較的明るいササやぶのような場所に生息するものとばかり思っていたのですが、改めて野鳥図鑑の解説などを見てみると「市街地の庭にも姿を現し、茂みの中を動き回って餌となる昆虫を探す。冬には木の実を食べに飛来することもある。」とありましたので、比較的吾々の生活圏にも飛来する鳥であることを知りました。
 鶯がやってきた日は、長い間息をひそめて垣根を観察していたのですが、鶯は絶対にその姿を見せてくれませんでした。茂みの中で活動するのでスズメのようにあまり人前には姿を現さないのでしょう。そこで、双眼鏡を持ちだし覗いてみると、垣根の横に渡した横竹のところをちょろちょろと動き回る姿を確認することができました。食物は四季を通じて昆虫類、蜘蛛類が主だそうですから、確認した鶯は、体の上にある枝や葉の裏側を見上げて獲物を探し、伸びあがって、又は飛び上がって餌を捕まえていたものと思われます。また、野鳥図鑑によれば、鶯の繁殖期は春から夏にかけてで、この時期に1〜2回ほど子育てを行うようです。繁殖期のオスはメスへの求愛と縄張りを守るために「ホーホケキョ」と囀りますが、その後は「チャッチャッ」といった地味な鳴き方しかしなくなるようで、これを「笹鳴きとか地鳴き」というようです。そして、同野鳥図鑑には、秋から春にかけての鶯は囀ることはないとありました。初めて、しかも突然訪問してくれたこの鶯でしたが、3日もしないうちに何処かへ飛び去ってしまいました。
4 「梅に鶯」・「竹に鶯」
 取り合わせのよいこと、調和して絵になるもの、仲の良い間柄のことなどを「梅に鶯」といいますが、『日本百科全書(小学館)』によると、「この語が詩歌に見られるのは、日本最古の漢詩集『懐風藻』以降のことで、それまでは「竹に鶯」が普通であった。梅も元々日本に自然分布せず、飛鳥時代に中国から持ち込まれたものであり、『懐風藻』の「梅と鶯」の詩も中国の詩が下敷きになっている。」とありました。
 これに対してインターネットの記事の中に、「それまでは"竹に鶯"が普通であった」とする表現に疑問を呈するものがあり、なるほどと思われましたので、その概要を要約して紹介します。つまり、中国の古い漢詩に「梅花蜜処蔵嬌鶯」があって、これにヒントを得て『懐風藻』の「春日翫鶯梅(かすがばいおうをはやす)」の中で、「・・・素梅開素厭、嬌鶯弄嬌声・・・」が出来、以来詩のモチーフとして万葉集を始めとする和歌などにも多く"梅と鶯"が登場するようになった(注1)。ただし、中国に生息する鶯は「高麗鶯(または黄鶯)」という鶯で、日本の鶯のウグイス科に対してコウライウグイス科といって種が違い、色彩も日本の鶯の灰色がかった緑褐色に対して黄色で異なる。」と述べ、次に「巨勢多益須(こせのたやす)の『春日慶応詔』の中の「・・松風雅曲を催し、鶯哢談論を添う・・・」、犬上王の『遊覧山水』の中の「・・・吹臺(奏楽台)哢鶯始め、桂庭舞蝶新し・・・」、釈智蔵の『翫花鶯』の中の「・・・忽ちに竹林の風に値ふ、友を求めて鶯樹に嫣(わら)ひ・・・」などの詩に見られるように鶯は、『懐風藻』において梅、松風、桂、竹林、蝶というそれぞれの単語と同一詩上に登場している。ただ、文献を調べても"梅に鶯"というモチーフの前に"竹に鶯"のモチーフがあった形跡がない。従って、"梅に鶯"と言われるようになる前は"竹に鶯"であったとする説には根拠がない。」とするものです。また、「鶯は、梅がいい、竹がいいなどとえり好みをしないし、人目に付きやすい場所より、餌となる虫のいそうな所で、かつ身を隠せる木々の間や藪の中に滞在する時間がずっと長い。竹についても、「孟宗竹、淡竹(はだけ)、真竹などは中国から持ち込まれたものであり、当時の竹は貴重品で、一部の竹職人衆の所有を除けば、皇室や貴族階級が独占的に所有していたものと考えられ、従って、『古事記』・『万葉集』の頃、竹林はまだ特別な存在であった。万葉集には竹を詠んだ歌は18首あるが、明確に竹林と判断できるものは2首、他は、小竹、篠竹など背丈の低い竹と"大宮"、"宮人"などを導く枕詞の"さす竹"である。そのようなことで、鶯と竹を論じる場合は、鶯が笹に近いきわめて低い竹藪に営巣する習性があるのであって、"竹に鶯"という取り合わせはあっても、あえて"梅に鶯"の前は、"竹に鶯"であったとする根拠は無い。」としています。ちなみに万葉集で明確に竹林に鶯と判断できるもの2首を、自分なりにインターネットで検索してみた結果、次の歌がありました。更に、『古今集』で鶯と竹(淡竹(はだけ)、真竹など)を詠んだ歌は、ただ一首であることも分かりました。
万葉集巻5−824 小監阿氏奥島(しょうかんあじのおきしま)
・梅の花 散らまく惜しみ わが園の 竹の林に うぐいす鳴くも [梅の花の散りゆくのを惜しみ私の庭の竹林で鶯が鳴いている]
万葉集巻19-4286 大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)
・御園生(みそのふ)の 竹の林に うぐいすは しば鳴きにしを 雪はふりつつ [御苑の竹の林で鶯がしきりに鳴いていたが、今は雪が降っている。この降る雪に鶯もなくことが出来ないであろう。]
 古今集巻8−958 読み人知らず世に経(ふ)れば 言の葉繁き 呉竹(注)の 憂き節ごとに うぐいすぞ鳴く[長く生きていると、いろいろといやなことが聞こえてきて、そうした辛い折々を嘆くように鶯が鳴いている](注) 呉竹とは、中国の呉から渡来したものという淡竹(はちく)の異名
 結局、"梅に鶯"ですが、「梅は本格的春に先駆けて咲き、鶯は春告鳥の名の通り春の訪れを歌い知らせるところから共に日本人には古くから親しまれており、この二者を取上げたのは、日本人の春を憧れる強い想いからであったと思う。そのような気持ちが古来より梅と鶯とをとり合わせ、今日我々が使用している"梅に鶯"という成句を成立させたものと思われる。ただし、"梅と鶯"の関係では、花期の梅に鶯が飛来するのは食虫の鶯ではなく、花蜜を好むメジロが多いといい、これと鶯とを見間違える場合が多いという。また、葉のよく茂った梅には、竹林より青虫、毛虫などの虫類が多く、枝葉の陰に姿を隠しやすいために鶯が飛来する場合もあると聞く。一方、"竹に鶯"については、鶯は竹藪、特に茂った成長中の若い竹藪に多く営巣を行うところから同様の成句を作り出したものと考えられる。鶯の本鳴きは、驚くほど良く透き通る大きな声で、遥か遠くの竹藪で鳴いていても、その鳴き声を聞き逃すことはないといわれている。」というようなことが結論のようです。
(注1) 万葉集において、梅と鶯が同時に詠まれている歌は、「春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家の園に梅が花咲く[春の野に鳴く鶯を呼び寄せようと我が家の庭に梅の花が咲くのです](巻5-0834、笄師志大道)」、「鶯の声聞くなへに梅の花我が家の園に咲きて散る見ゆ[鶯の鳴き声を聞くたびに我が家の庭に咲いた梅の花が散るのを見るのです]」(巻―5-841、対馬目高氏老)など11首がある。
5 懐風藻に詠まれた梅と鶯
 『懐風藻』というのは、『新編国語便覧』(秋山 虔編、中央図書、昭和52年1月25日初版1刷発行)によれば、「日本最古の漢詩集一巻で、751年(天平勝宝3)成立とされる。選者は未詳。「懐風」とは「古い詠風を懐かしむ」という意味で、「藻」は美しい詩文のことである。近江朝(7世紀後半)以後約訳80年間における64名の漢詩約 120種を作者別、ほぼ年代別に配列している。作者は大友皇子(おおとものみこ)、大津皇子、長屋王(ながやのおおきみ)などが代表で、五言詩が多く,対句が重視されている。」とあります。そして、前述の葛野王(かどののおおきみ)(669年〜705年)が詠んだ「春日翫鶯梅」と題する詩の全部は次の通りで、第3句と第4句に梅と鶯が出てきます。
 聯乗休暇景(聯(いささか)に休暇の景に乗り)
 入苑望青陽(苑に入りて青陽を望む)
 素梅開素厭(素梅(そばい)素厭(そよう)に開き)
 嬌鶯弄嬌声(嬌鶯(きょうおう)嬌声(きょうせい)を弄(もてあそ)ぶ)
 対此開懐抱(これに対して懐抱(かいほう)を開く)
 優足愁暢(優に愁情を暢(のぶ)るに足る)
 不知老将至(老の将に至らむとすることを知らず)
 但事酌春觴(但(ただ)春觴(しゅんしょう)を酌む事とす)
 [詩の大意]
 ちょっと休暇の日をかりて 園に入って春の景色を眺めた
 白梅は白くほころび 鶯はあでやかに囀っている
 うららかな景に心もほどけて 憂いもいつかきえてゆく
 老いのことなどすっかり忘れて 酒杯を手に春の興にひたるばかりだ     
6 大先輩・土屋竹雨先生
 漢詩といえば、大先輩(第14回・明治36年3月卒)に土屋竹雨先生(本名;土屋久泰)がおります。第2次世界大戦後は大東文化大学学長となり、漢詩の復興に努力されましたが、経歴の詳細などは『庄内人名事典』などに詳しく出ていますのでここでは省略します。中国の孫伯醇(注)が漢詩の衰退を嘆き、「日本の漢詩は土屋竹雨で終わってしまった。中国では魯迅から駄目になってしまった。これも時の流れとして仕方のないことだろう。・・・」と語ったそうですが、漢詩の研究では、日本一といわれ、日本芸術院会員となり、世界平和に命を込めた「原爆行」、「水爆行」などの作品は、英語に訳され、世界各地の人々に深い感銘を与えました。
 鶴岡公園の荘内神社参道奥、本殿に向かって右側という最高の位置に先生の顕彰の詩碑と先生の胸像のレリーフが建立されており、その石碑には次の通り「望郷の詩」と題する漢詩が刻まれています。この詩は、日本が日々敗戦へと転がり落ち続けていた1943年(昭和18)に詠まれたものといわれており、1970年(昭和45)11月5日、先生の13回忌に先生を尊敬する人々によって建てられたということです。
 故国山水多清(故国の山水清多し)
 日帰日帰猶未帰(帰らんといい、帰らんといいて猶未だ帰らず)
 一夜夢乘皓鶴背(一夜夢に皓鶴の背に乘じ)
 遠向明月峯頭飛(遠く明月峯に向かって飛ぶ)
 [詩の大意]
 故郷鶴岡の山川は緑豊かで清らかな光の中にある
 帰りたいと思いつつも、今日まで帰れないでいる
 ある夜、夢の中で白鶴の背に乗り
 遥かに天翔けて,明月に照らされた月山の峰へと飛翔した
 (注)1891年(明治24)生まれ。1905年(明治35)に安徽省の官費留学生として来日し、後、法政大学を卒業。その後、1918年(大正7)北京大学で講師となる。1924年(大正13)、中国外務省に勤務、後、駐日中国大使館書記などを勤めた。常に中国古典文学を研鑽し、日中文化・風俗習慣の理解に努めた知識人。東京外国語大学、東京都立大学、学習院大学及び湯島聖堂などで中国古典文学を講義し、日本の漢学会、中国語教育界で高い評価を得た(日本橋・京橋美術骨董まつり紹介ブログより)。
  7 鶯垣(うぐいすがき)
 樹枝の乾燥させたものを密に立て、その両側を割竹によって押さえた垣を「柴垣」といい、野趣があるので、侘び寂の世界である茶室の庭などによく用いられます。そして材料にクロモジの枝を用いたものを「鶯垣」と呼び、古代から使用されていたというのですが、なぜ"鶯垣"なのか、その由来をいろいろ調べてみましたが結局分かりませんでした。そこで、私なりに次のようなことを考えてみたのですがいかがでしょうか。
 春、 クロモジ(クスノキ科)の黄緑色の花は開葉よりも早く開花します。クロモジより花が先に咲く樹木としては、マンサク(マンサク科)、ダンコウバイ(クスノキ科)、アブラチャン(クスノキ科)が挙げられますが、まだ雪がある中で咲くマンサクが冬の終わりを、雪解けの前後に咲くダンコウバイが春の到来を、そしてクロモジの開花が本格的に春を告げるとされています。一方、鶯は、春の季語であり、"前述の通り春告鳥"の異名を持っています。このようなことで、クロモジの花も鶯と同様、人々が春の喜びを讃える象徴的なものの一つであり、そこからクロモジの樹枝で造る垣のことを "鶯垣"と風流に呼ぶようになったものと推定するのです。なお、クロモジの小枝や葉を折ると、特有な芳香を発し、茶席などで出される菓子の高級揚枝に用いられていることは周知のことと思いますが、茶席において、来客の時にあらかじめ湯を鶯垣にかけておくと高尚な香りを発散するということです。
 それにしてもあの日なぜ我が家に鶯が飛来したのか、移動の途中でちょっと寄り道をしたのか、それとも仲間にはぐれたのか、なんとも不思議な出来事でした。鶯が動き回っていた竹垣も、老朽化して傷んでいたところに今年の大雪が駄目を押したため、遂に取り払いました。しかし、鶯が餌を啄ばんだカイズカイブキとムクゲの木は、今も枝葉を茂らせて隣家との境には並び立ち、鶯の再訪を待っています。


2012年6月6日