「知行宛行状」について
1 知行宛行状
右の書状は、庄内藩士であった相良家の親戚の家に保存してあるもので、享保17(1732)年10月15日に庄内藩酒井家七代・酒井忠寄が相良家四代・相良惣右衛門に対して与えた「知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)」です。横54,5センチメートル、縦 21.5センチメートルの大きさの堅紙の和紙に毛筆で書かれています。
「知行宛行状」というのは、「知行」を宛行(あておこな)う時、主君から家臣に対して与えられ文書のことで、「知行」というのは、藩主が家臣に俸禄として土地を支給することをいいます。従って、家臣は土地とともにその土地に付随する百姓も含む形で支配することになります。その土地からあがる石高を保証する文書であるため、武家の文書の中でも一番大切に保管されました。
このとき、相良惣右衛門は、「物頭(ものがしら)」の地位にあり、この身分は足軽組28組(1組25〜30人)を統括する役職であり、禄高 200石以上の家中から選ばれたので、書面に記載されている 250石という数字は、身分相応の数字といえます。この「物頭」には、盗賊改め、宗門改め、鉄砲改め等の係がありました。
2 相良家のルーツ
所有家のメモや『庄内人名事典』や『庄内藩士並びに諸家系図』(阿部整一)によると、相良家初代三郎左衛門(定次)(〜正保4年(1647)は、戦国武将武田信玄の家臣相良左近の子供で、母が下総国碓井(現千葉県佐倉市臼井)で酒井家二代・家次の生母に仕えた縁故により召出され,家次の詞子・忠勝の小姓となりました。大阪の陣に参加して一番槍の功名を上げ、度々の増加により家禄 400石を給されました。性豪勇で忠勝の所望により国禁の鶴を捉えて献じ『もしこれが露見したらどうか』と問われ、『ただ切腹あるのみ』と答えたそうです。また、深夜に忠勝に供し鳥打ちのために江戸雑司ヶ谷付近に赴いた折、幕吏に発見され追われましたが、追手を切り殺して忠勝をのがれさせたと伝えられています。
なお、徳川家康の従兄弟に当たる酒井家次は、三州吉田3万石、下総国碓井3万石、常襲高崎5万石、越後高田15万石と移り、庄内藩主となる嗣子・忠勝は、父が下総国碓井を治めていた折に出生し、越後高田統治の時に家督を相続し、信州松代10万石を経て、元和8年(1633)に出羽庄内13万8千石として入部しています。
3 書状の内容
書状を読み下すと次のようになり、その意味は「 250石を宛行ものとする。平均小物成についても定めの通りすべて宛行するものである。」というものです。なお、黒印は忠寄と刻印してあり、書状は祐筆の手によるものです。
高弐百五十石事(たかにひゃくごじゅっこくこと)
宛行之訖平均(あてがいのおわんぬへいきん)
小物成如定法全(こものなりじょうほうのごとくすべて)
可知行者也(ちぎょうすべきものなり)
享保十七年(1732)
拾月十五日 黒印(忠寄)
相良 惣右衛門どの
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4 「地方知行(じかたちぎょう)」
庄内藩は、元和8年(1622)から廃藩置県の明治4年(1871)まの約 250年間存続したわけですが、初期の段階においては「地方知行」が一般的でした。『庄内藩』(斎藤正一著、吉川弘文館、平成2年10月10日、第一刷発行)には、寛永6年(1629)の資料として次のようなものが記載してあります。
知行之事
高150石 小河与兵衛代官所 下河村
高 50石 中台式右衛代官所 河村
高分200石
右所務可有也 酒 宮内(酒井忠勝)
寛永6年(1629)巳7月25日 御名 花押
奥村九左衛門との
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この書状で、「右所務(しょむ)可有也」とあるのは、家臣が実際に農民を支配し、年貢取り立てや、税の徴収を行うことを表しているもので、すなわち、藩の郷方役人がいて実際は後に述べる「蔵米知行」であるのに、家臣が書状の@現地に出向き村人に農作を励まし(勧農)、A領地での事件・訴訟に対して裁決し(裁判)、B秋に田畑の様子を観察して、租率を決め、(租額率決定)、C現実に年貢をとる(年貢収納)ことを行っていたことを示しています。
5 「地方知行」から「蔵米知行」への移行
地方知行では、知行地に良し悪しがあり、「年貢率(免)」も高い低いがあって、同じ知行高であっても年貢収納に多寡の違いが生じたり、人によっては、異常に高い年貢をとったり、強制労働を課したりする場合があって、領民と対立することがしばしばありました。そこで、領内の年貢米は藩の郷方役人が知行地を支配収納し、その禄高に相当する年貢米を蔵米から支給する形態に改めましたが、これを「御台所入」ともいいました。庄内藩における地方知行制は、正保(1644〜1643)から慶安(1648〜1651)の間に一部例外を除いて廃止され、蔵米知行に移行したものと考えられています。
庄内藩の年貢の徴収方法には、その年の作柄を調査して徴収額を定める「検見法(けみほう)」と過去5年から20年の平均租額率である「定免法(じょうめんほう)」があります。元和9年(1623)の検地による石高の大幅な増加を踏まえて、寛永2年(1625)に田畑の免付けを行い、同年から年々の貢租の平均額を定めて年貢とし、これにより知行高の不均衡を是正する「平均免(ならしめん)」による徴収が始まりました。その後、寛文9年(1669)に水帳(検地帳)改めが行われ、「定免法」が確定し、翌年から実施されたといわれます。「定免法」では、年貢高が固定され、ある一定期間、豊凶にかかわらず年貢が徴収されました。また、「定免法」になったことにより、家臣にとってはどこに領地があろうが関係なく、石高に応じた物成が藩庫から貰える制度になったわけです。文頭で示した相良惣右衛門の宛行状は、この時代の「知行宛行状」で、初期には明記されていた知行状の村名は省略されて石高だけになっています。ただし、庄内藩には、「検見法(けみほう)」も存続していて、「定免法」をとるか「検見法」をとるかは、村々の選択に任せていたといい、幕末まで続いたそうです。
母校の校門脇には「七つ蔵」跡の案内板がありますが、その昔敷地の一角に中川蔵、山中蔵、嶋蔵、京田蔵、櫛引蔵、御扶持方蔵という藩の「七つ蔵」があって、年貢米は、ここに知行地の区別なく一括収納され、家中の物成(年貢米)は、知行地を支配する代官所から米札で渡されました。同様に給人の切米(知行地を持たない家臣、すなわち給人への禄米のことです。)・扶持米(下級武士への家族手当的な米の支給で、男女によって一人当たりの支給量が異なりました。)も蔵米から米札で支給されました。
6 「家中」と「給人」
庄内藩では、寛永10年(1633)頃には「地方知行地」を持つ家臣を「給人」と呼んでいましたが、その後、知行取りのことを「御家中(ごかちゅう)」と呼び、米で支給される「徒」以下の下級家臣を「御給人(おきゅうにん)」と呼ぶようになりました。「給人」は、前述の通り米で支給する「切米(きりまい)」・「扶持米(ふじまい)(家族手当的なもの)」制度でした(例:10石2人扶持)。
なお、鶴岡に「家中新町」という町名が現存しますが、これは「家中(中級以上)」を住まわせるために新しく作った町だったのです。
7 「本途物成(ほんとものなり)」と「小物成(こものなり)」
本年貢のことを「本途物成」といいますが、「小物成」とは、「小役(こやく)」ともいわれ、雑税の一種です。具体的には、薪、藁、草、糠、菰、縄、杭、大豆、えごまなどを指し、薪、藁などは、現物納、大豆、えごまなどは代米納でした。これらを納入するための村を家臣達に割り当てる形は続けられており、これを「小物成所」と称し、村方は小物成りを所有する家臣のことを「地頭」と呼びました。なお、「川北(最上川以北)」には、「小物成所」の指定は無く、「小物成」は「銀」で徴収さました。
100 石当たり小物成の例を『庄内藩』(斉藤正一著、吉川弘文館、平成2年10月10日第一刷発行)でみると、藁6駄(36貫=1貫×3.75kg×36=135kg)、入木5駄(1駄は馬で一度に運べる量で、4束)、糠10俵、雪菰2枚等であったようです(『庄内三郡知行高之覚』(正保4年(1647))。雪菰は現物納、他の四品は、銀納も認められており、26匁となっていました。
8 年貢米石代納(金納)
ところで、1872(明治5)8月、明治政府は「年貢米石代納(金納)」を認めたのですが、旧庄内藩士族体制の酒田県は、これを農民に知らせず、従来通り米納を強制し、御用商人と組んで米売却による莫大な利益を得ました。このことがかの有名な「ワッパ事件」を誘発したのですが、「ワッパ騒動義民顕彰会」事務局長の星野正紘さん(第61回卒)から頂戴した資料・『萬世間聞相場記』という日記には「明治7年5月・・・全て金納と成っていたところ、下々にはっきりと知らせも無く、御用商人が仲買をして金納することに県役人と談合してやった。狙い通りに値段が上がったので大儲けをした。百姓一同にはねたみや不満が生じた。山浜通り・櫛引通りで金井与四郎(資直)様がお指図をしているそうだ。二男金井小三郎様は新整組一人とお百姓都合七人を同道して東京へ上り嘆願した。その他雑税の取り立ても不明があり嘆願に上がったのだそうだ・・・」との記録があります。なお、この件に関しては、小生が2009年11月4日と11月20日の2回に分けて「ワッパ騒動」と「地租改正」と題する投稿をしておりますので参照してください。
9 相良惣右衛門の年収
時代の違い、貨幣価値の違いなどがあって一概にことを決めるわけにはいきませんが、一応の目安と言うことで相良惣右衛門の年収を計算してみたいと思います。
『庄内藩』(斉藤正一著、吉川弘文館、平成2年10月10日第一刷発行)にある『本間光丘上書』(寛政5年(1793)によると、本年貢は五つ五分(55%)、雑税二つ二分(22%)とあり、また、1872年(明治5)の大淀村の一石当たりの租税の資料でも55.2%とありますので、これを用いて相良惣右衛門の年収を計算してみようと思います。
まず手取りとなる石数は、250×0.55=137.5石となり、1石=約150kgですから、137.5石×150 kg=20,625 kgが収入石数となります。次に、山形県産「生え抜き」のスーパーでの1kg当たり価格、298円を参照して現代の年収額を求めると、20,625kg×298円=6,146,250円(年収)となります(月収では512,187円)。更に、これ以上に小物成が加算され、更に、職禄や扶持米(家族手当)等が支給されたのではないかと思われます。家族数も今より多かったでしょうし、使用人の雇用や慣習による贈答なども多かったと想像されるのですが、武士としての体面を保ちつつなんとか生活を維持していけたのではないかと思われます。しかし、低禄の御家中や御給人階級の人々は、内職や塾でもとにかく何でもしなければ生活していけなかったのではないでしょうか。
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