●明治天皇の県内巡幸と三島通庸
近代洋画の開拓者「高橋由一」展が12年7月20日〜8月26日まで山形美術館で開催されている。「栗子山隧道図」はトンネル開通式典の際に明治天皇の行在所に飾られた作品。初代山形県令三島通庸が明治天皇をお迎えするにあたって山形県の幹線道路を整備し胸を張って自分の偉業を高橋由一に記録させた数多くの作品の一つである。
「富国と殖産振興」推進の内務卿大久保利通は、東北の進歩は道路の開削にありとして土木事業に力を入れた。薩摩藩の先輩西郷隆盛の下で働いていた三島は西郷の推薦で東京に出て首都の行政に携わり、明治7年(1874)には西郷の盟友大久保の強い要請で酒田県令に任じられた。国立国会図書館憲政資料室の大久保利謙氏は、「新政府設立当時の東北は戊辰戦争の過酷な戦傷があってなお敵地。大久保が三島を酒田県に派遣したのはこの要注意の地点を押さえさせる意図があった」としている。
三島は酒田県に乗り込むと県庁を酒田から旧庄内藩の本拠である鶴岡に移した。その理由は旧庄内藩の反政府的空気をおさえ、人心を政府に向けることであった。翌年には酒田県が鶴岡県に改まって鶴岡県令となり、明治9年(1876)に統一山形県が成立すると三島は初代山形県令に任命された。
大久保は山形県成立に先立つ明治9年(1876)6月、天皇の奥羽地方巡幸の先発として置賜、山形、鶴岡の三県を巡視。とりわけ三島の施政に注意を向けて詳しく見聞し鶴岡では学校教育、旧庄内藩士の授産事業などで上げた実績とワッパ騒動の処置などその行政手腕を高く評価した。三島は大久保の国家構想を実現するため赴任直後から殖産興業・土木事業・学校の設置などの近代化を精力的に推進、「土木県令」「鬼県令」の異名を持つまでになった。
三島から山形県への天皇巡幸請願が出されたのは明治9年(1876)、さらに明治11年(1878)の北陸・東海地方への巡幸の際にも再度出されたが却下された。再三の請願却下の要因を三島は「地方の治績まだ上奏するに足らない。また山川の険阻、道路の凸凹」と受け止めた。そこで三島は秋田・宮城・福島と結ぶ峠道を馬車で通過する道路にするため新道開削・主要道路整備は「巡幸の道路」として各村落の多大な負担を課し強制的な姿勢で推進した。道路整備とともに明治10年(1877)に山形県庁、翌年には山形市立病院済生館、そして郡役所や警察署、師範学校、製糸工場など洋風公共建築や勧業施設を続々建てて新しい県政機構の確立をはかった。
明治14年(1881)9月22日、明治天皇は秋田県境雄勝峠を越して新及位(しんのぞき・現真室川町)の高橋作右衛門宅で小休止された。高橋家は前年に近隣の出火で全焼、新築したもののまだ完成していなかったので、木挽き・大工・左官など30人を雇い昼夜兼行の作業で完成させた。急峻な山々の合間にある及位村は戦前まで周囲の町村民から「山形県から除け村」「最上郡から除け村」と揶揄された極めて貧しい地域。当地の最大のもてなしは窓から望む三瀑一観の風景だった。明治天皇はこの景色を賞でられ、川田編集官に詩をつくらせた。その詩には、「絶壁懸崖碧瀬奔 誰図龍駕此停轅 塩根嶺近連山脈 藻上川初見水源 ‥」と詠われている。また塩根川に新しく架した石橋は「萬代橋」と命名された。お供の人数は北白川宮能久親王はじめ、政府高官330人、先発官20人、県官・郡吏、巡査、人夫など総勢1,000人を超す一大行列だった。
三島は山形県令に命ぜられてまもなく秋田県に呼びかけ、産出量全国一の院内銀山の産銀の輸送確保も可能になるとして雄勝峠と塩根峠に隧道を掘削する新道を計画し内務省に工費支出を申請した。しかし、二つの隧道を伴うこの工事はあまりにも経費がかさむという理由で隧道掘削は中止となった。代わりに九十九折りのカーブを伴う幅の広い道にすることに落ち着いた。この工法は金山に通じる主寝坂(しゅねさか)、森合、上台の三つの峠と猿羽峠(さばね)にも採用された。新道の開削で従来の難路は馬車も通り得る大路になったが、九十九折りの急坂では馬車の通行はなかなか困難であった。この工期中に及位の塩根川には万代大橋と命名された石橋をはじめ上台橋、金山橋、赤沢橋、朴木沢橋、中田橋の六橋が架けられた。
峻嶮な主寝坂峠は板輿(前後二人で持ち上げて運ぶ乗り物)で通過し金山の行在所の岸三郎兵衛家をお昼休み所とした。岸家では行在所に内定すると所有の山林の杉を選抜して伐採して行在所を新築した。人夫は斎戒沐浴し白衣を着て伐採した。当時金山村には荷車がなかったが、岸家で2台を新調した。木材の運搬に男の子ども数人に小旗を持たせ「万歳」を三唱させて行在所建築現場まで運搬に同行させた。そして起工して数十日で竣工。この行在所は現存しているが未公開、隣の役場の二階から俯瞰することはできる。
翌9月23日には庄内に向けて出発、新庄の本合海では最上川に特設した船橋を渡り馬車、板輿で清川、狩川、鶴岡、酒田を巡幸。余目八幡神社(庄内町)には村民の稲刈りを叡覧しながら通過する場面の絵馬が納められている。
鶴岡市史の「三島通庸と鶴岡」では「三島が県令在職中に実施した事業は実に多く、新しい時代は彼によって開かれ、鶴岡の文明開化は彼によってはじめられたといってよい」と讃えて紙面を多く割いている。三島は学校教育が振るわないのを憂い、模範となる盛大な学校を建てるとして、明治9年(1876)洋風瓦葺き三階建て朝暘学校を建築(設計図は三島の遺族から山形県立博物館に寄贈)、明治13年(1880)には西田川郡役所の建築に取り組んだ。完成は翌年5月になったが、この年の9月に明治天皇巡幸の宿舎の行在所に決まったため、わずか4カ月で改築が行われた。文明開化の名棟梁高橋兼吉がかかわった洋風建築は鶴岡警察署、清川学校、鶴岡裁判所、東田川郡役所、西田川郡医事講究所、大山尋常小学校、鶴岡町役場、山居倉庫などがある。三島は庄内で文明開化策に重点を置いたことが記述されている。洋装した明治天皇の全国巡幸は、国民に天皇像を民衆に植え付け、政府の西洋化政策推進の象徴であり、三島の取り組みは軌を一にしていた。
庄内藩は戊辰戦争の主力となった地であり明治10年(1877)の西南戦争では鶴岡士族の動向が政府にとって最も心痛の種となっていた。そこで「鶴岡市史」の「明治天皇の巡幸と鶴岡」には注目したが、事実関係を4ページで扱っているに過ぎない。明治の政治家で漢学者でもある副島種臣は、庄内人の気風を「沈潜の風」(ちんせんのふう・目立たぬよう深く沈み隠れるおくゆかしさ、謙虚さを美徳した気風)と評した。この気風が昭和37年に出版の鶴岡市史の編纂方針にも反映されてこの扱いになったのでは‥とうがった見方もしたくなるほど簡単な記述である。
一方、「酒田市史」は天皇の宿泊する行在所をめぐり本間家別荘、琢成小学校、飽海郡役所、そして渡部作左衛門宅と変更が相次いだことを伝え、両羽新報がこの様子を批判。巡幸奉迎準備体制づくりで郡長更迭される混乱と両羽新報社長・編集長が讒謗律で拘留、懲役・罰金刑に処されたことなどを取り上げている。
天皇は9月27日に再び新庄に戻られ28日には羽州街道を南下、猿羽根峠は、三島県令の新道開削事業で大改修されたとは言え、人々の通行を妨げる険阻な山道であった。ここでも板輿が準備されていたが地元舟形の若者20人が股引き、草履に白袴をつけ上半身裸で御馬車に長い紐をつけて引き馬を助けた。この日は残暑厳しく、時々休み、その度毎に長持ち唄を唱えて通過したという。人夫の丸裸については当初、県官・巡査らは天皇に対して不敬にあたるとして許さなかったが、人夫の強硬な反対にあいやむなく黙認したと伝えられている。
金山の岸家、酒田の渡部家に限らず地元の名家では行在所を建築、庭園の景趣を整備し自慢の屏風や盆栽を飾るなどして最高のもてなしをして地域における地位を誇示し、天皇を背景にした名家としての存在を実感させたのであった。山形市の行在所で天覧に供したのは、高橋由一の油絵「最上川舟行」(東京国立博物館)「千人澤白糸瀧の図」(行方不明)「猿羽根峯より鳥海山を望むの景」(行方不明)「猿羽根新道の図」(行方不明)の4点(山形美術館学芸課長、岡部信幸氏の指導でこの部分を訂正)、菊地新学の「山形県庁写真」それに「上杉鷹山筆掛け軸」「後醍醐天皇綸旨」などであった。
尾花沢の柴崎弥左衛門家では庭に建立してある碑をご覧に入れた。この碑には「みちのくの 尾花が澤の人なれバ 澤潟摺りの 衣着なまし 人麿 」また背面には「長歴二戊寅四年四月 藤原實方興立」と刻んであった。柴崎家はこの石摺り拓本を宮内省に献上したが後になって史実と異なることが分かった。實方は山形の「あこやの松」見ての帰りに名取の笠島道祖神社前を騎馬のまま通過し、その無礼のため落馬して死亡した。名取にある墓には「長徳四年十一月十三日」と刻んである。歌碑にある長歴二年は實方の死後41年にあたり史実と合致しない。
梅津保一氏によると、この碑は天保13年(1842)、近くの石橋に僅かな字を残して埋もれていたのを柴崎家の先祖が発見、川で洗い流したところ和歌が刻んであったので自分の庭に持ち運び建立したものであった。柿本人麻呂は尾花沢を訪れてもいない。日頃から貧しい尾花沢が天保の飢饉で苦しんでいたので、村人を力づけ、誇りを持たせるために尾花沢を称えた歌碑がつくられたのではないかと梅津氏は推察している。
また柴崎家の行在所には「職人尽絵」の六曲一双屏風を飾り明治天皇を迎えた。職人尽は近世初期に盛んになった風俗画で、絵は経師、刀磨き、鍛冶、絞り染めなど当時の風俗を描いた24枚の貼り合せ屏風。署名や印はないが、岩佐又兵衛(天正6年〜慶安3年)の工房作と伝えられていた。明治天皇から大変にお褒めをいただいたとあって北村山地方では評判になったという。その後この屏風は庭石とともに大石田町の名家に譲渡された。大石田を3人連れで訪れた画家、小杉放菴・武者小路実篤・中川一政もこの名家に立ち寄りこの屏風を見たという。
戦後にこの屏風と庭石は大石田の名家の手を離れ、庭石は親類によって東京大学に寄贈されたがその存在は確認されていない。当時の新庄税務署長が最上地域の同好の士を集めては、戦時中に疎開してきた人々が農家と物々交換した書画骨董を鑑定するなどしていた。今では考えられないが、相続税の支払いなどをめぐり、税務署長が情報を得ては売買の斡旋していた。「職人尽絵」屏風も高値をつけたいと考え、小杉放菴・武者小路実篤・中川一政にお墨付きをもらおうとしたが、「分野が違うので‥」と丁重に断られたという。それでも当時としては高額な値で好事家の一人に渡った。この屏風はいま山形美術館に寄託されているが、又兵衛工房の作とは確認できず作者不詳となっている。行幸に関する資料を含め、柴崎家文書約6,600点が山形県立博物館に寄贈にされている。
三島が山形県令になって取り組んだ最初の道路開削工事は、米沢から刈安を経て栗子山中腹に隧道 (864m)を掘削して福島県に達する路線の改修であった。この費用の地元負担と労力奉仕は莫大なもので地区住民から大きな不平の声が上がったが、三島はこの隧道の開削は東京から山形・秋田を結ぶ主要道として、福島県と「結約書」を交わし共同で新道開削を行った。この工事の測量・施工の指導監督に内務省から派遣されていた一人の外国人(オランダ人)が土木技師のエッセール。工事現場で「当県繁盛のための新道開削なので些少ではあるが役立ててもらいたい」との手紙を添えて10円を地元の区長に寄付し関係者を感激させている。
掘削にはアメリカ製の蒸気による削岩機、当時アメリカには3台しかない製品の一台を購入して3年10か月で貫通させた。貫通が間近となった時に三島は工事小屋に宿泊し、人夫を激励しながら貫通の一瞬に立ち会った。三島は山形県と福島県を結ぶ夢の馬車路線が現実となって開通する喜びを電信で政府に上申し、明治11年(1878)凶刃に倒れた故大久保利通の墓前に報告してくれるよう松方正義内務卿に依頼している。
高橋由一は明治天皇の山形巡幸四か月前に、宮中の御歌掛などをつとめていた薩摩出身の高崎正風の紹介で同じ薩摩生まれの三島通庸を知ることになった。由一は、明治12年(1879)四国讃岐の金毘羅山博覧会に37点の作品を出品し、そのうち35点を金毘羅宮に奉納した。主宰する画塾拡張の資金を必要としていたからである。金毘羅宮の資金援助の仲介の労をとったのが高崎正風であった。(古田亮著 「高橋由一 日本画の父」 中公新書)
由一は三島に、普及しはじめたモノクロ写真の特質や効用を認めつつも、写真は退色が著しいこと、それに比べ保存性の高い油絵の優位性や記録性を強調、三島はその記録性に注目して自らが指揮した新道の記録画の制作を由一に委嘱した。
県内巡幸の最後の日の明治14年(1881)10月3日、明治天皇を迎えて盛大に開通式が行われた。この開通式会場の行在所に高橋由一の「栗子山隧道図」、3年前に暗殺された「大久保利通の肖像画」「上杉鷹山の肖像画」の3点を掲げ天覧に供された。この大事業の実際上の守護神であった大久保利通、米沢の名君であり隧道掘削を試みた鷹山公の肖像画を飾ることで、大恩人の大久保と、過重な民費負担に反対する抗議や訴訟はあったが、最終的には隧道完成まで協力した地元民にそれぞれ感謝の意を表したのであった。
明治天皇一行は三島が先導し、お供の者が灯火を掲げて足元を照らし徒歩で福島側に抜けられた。三島はその途上「栗子山隧道図」献上を申し出て、天皇はお受けになった。この日こそは三島にとっても由一にとっても最良の日であった。「栗子山隧道図」は後に宮内省に献上された。(この部分、山形美術館学芸課長の岡部信幸氏の指導で訂正)天皇はこの新道に「万世大路」(ばんせいたいろ)と命名され、三島には絵の礼として金15円のご下賜金があった。(古田亮著 「高橋由一 日本画の父」 中公新書)
「栗子山隧道図」は現在宮内庁三の丸尚蔵館所蔵になっているが、山形美術館で開催中(8月26日まで)の近代洋画の開拓者「高橋由一」展では2階の東北風景画のコーナーに、また「大久保利通の肖像画」と「上杉鷹山の肖像画」は1階の人物・歴史画のところに展示されている。展示の機会が少なかったのか保存が極めてよく制作直後のような色彩を放っている。この3点が山形県内で同時に展示されたのはこの栗子隧道開通式以来 131年ぶりのことではなかろうか。
三島通庸と高橋由一の結びつきについて芳賀 徹東大名誉教授(父は歴史学者の幸四郎。昭和10年〜短期間だが母校・鶴岡中学校職員)は、由一が描いた絵を「たしかに誰が見ても画期的な事業を、単に書類の束や報告書の類の文字の記録に残すだけではなく、その事業にふさわしい新しいかたちでの視覚的な記録、つまり油絵として描かせてみよう、そうしてみたら一段と面白いにちがいない、という能動的な気持ちが三島に働かなかったら、この由一の申し出を受け付けなかったのではなかろうか」と述べている。
一方、明治天皇の山形県巡幸について大濱徹也氏は編著「国民国家の構図」(雄山閣)のまえがきで「巡幸がもたらす多様な物語として地域住民の世界にいろどりをあたえました。山形県で奏でられた交響詩には、地域振興をめぐる開発行政のみならず、記録のとり方においても、明治政府が営んだ世界の縮図をみることができます」と結んでいる。
参考文献 山形県史 山形市史 真室川町史 金山町史 新庄市史 鶴岡市史
酒田市史 尾花沢市史 米沢市史 大濱徹也編著「国民国家の構図」(雄山閣)
宮崎 康「東北振興策としての山形県巡幸」 小形利彦「高橋由一『三県道路完成記念帖』にみる庶民像」 西那須野町・尾崎尚文編「高橋由一と三島通庸」(西那須野町)大久保利謙「三島通庸の東北開発」芳賀徹「歴史のなかの高橋由一 ―画家と土木県令― 青木茂「高橋由一・明治17年―『鑿道八景』考 古田 亮著「高橋由一 日本洋画の父」(中公新書)梅津保一「明治十四年の明治天皇巡幸と尾花沢」(尾花沢市芭蕉・清風歴史資料館運営委員会) 岡田益男「第二回東北御巡幸」(東北文庫)
(2012年7月30日・8月23日山形美術館の指摘で一部訂正)
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