山形県公立病院・済生館に関係した庄内ゆかりの人々(2〜1)
1 はじめに
現山形市立病院済生館は、明治の初年、天童と山形の豪商の手により私立病院として創設された後、山形県公立病院へ、更に、私立病院を経て1904年(明治37)4月に山形市立病院になった歴史を有します。この済生館が山形県公立病院であった1873年(明治6)12月から終焉を迎えた1888年(明治21)2月までの間に庄内所縁の人々が関わっていたことを私は『日本大学学術研究助成金研究 山形県済生館の洋学史的研究』(小形利彦、2011年(平成23)6月24日、大風印刷)を読むまで知りませんでした。
小形さんの纏めたこの書は、明治初期に創設され、山形県の近代医学の祖として知られる山形県公立病院済生館の歴史的経緯を明らかにしたもので、著者は、長年、西洋医学を導入するために創設された済生館の開設事情を調査する一方、同館医学寮(医学校)の教頭として、開設期に指導に当たったお雇い外国人ローレッツ(老烈)の調査・研究を続け、豊富な資料を用いて論述したものです。ローレッツについては、筆者自身がオーストリアの彼の生家を実地に訪問して、日記や当時の新聞記事などから日本滞在8年間の活動を調査しています。
ローレッツが愛知県公立医学校、金沢医学校を経て山形県済生館医学寮教頭に招聘された1980年(明治13)ごろは、済生館の充実期であったことが理解でき、また、済生館や医学寮、山形医学校には今まで私が知らなかった庄内所縁の人々が重要な役割を果たしていたことも分かりました。
以下、本書から分かったことを私なりに纏めて報告してみたいと思います。なお、本書以外に参考とした資料などについてはその都度、文末にカッコ書きにして記述することにします。
2 済生館設立の経緯
山形県内では、江戸時代、米沢藩は東北の長崎と呼ばれ、医学の興隆が見られ、学問所「興譲館」や医学校「好生堂」が発展・充実しており、これらが明治維新の改革で「置賜県病院」に引き継がれ、菊池篤忠(院長)・藁科松柏・中条玄休・堀内亮之助・西野佐久之・鈴木宗琢等の医師が活躍していました。又、酒田では天保4年(1833)ごろから白崎五右衛門が「十全堂」を設けて医学講習の機会をつくる等の動きが見られ、更に、内陸では、江戸時代、種痘普及に貢献した長澤理玄(1815〜1863)の活躍がありました。
1873年(明治6)、村山郡天童村(現天童市)の豪商で薬種商を営む佐藤伊兵衛は、愛孫がジフテリアに罹患した際のモルヒネの誤用により亡くなったことから、文久4年(1846)から緒方洪庵「適々齊塾」、慶応2年(1866)から伊東玄朴「象先堂」へ入門して西洋医学を習得して帰郷した天童藩御典医武田玄々とはかって、親戚の山形十日町の豪商長谷川吉次郎家から大部分の出資を得て、天童村五日町に私立病院を設立しました。この武田玄々は、佐藤伊兵衛家七代直諒三男として生まれた良祐(1824〜1895)が天童藩の藩御典医武田玄祐の養子になった人でした。
佐藤伊兵衛家と長谷川吉郎治との関係は次のとおりです。つまり(屋号○長)長谷川家は初代から吉兵衛を名乗っていましたが、五代目の代で吉郎治と改名しています。この五代目の長男が六代目を継ぎ、次男が(屋号○川)長谷川家、三男が(屋号○谷)長谷川家として分家します。この(屋号○谷)長谷川家の娘・「おまさ」が天童の豪農である佐藤伊兵衛の九代目直正の弟・正則を婿養子に迎え七代目を継ぐことになりました。七代目となった正則は、山形の指導者的立場の人となり、第81国立銀行(現在の山形銀行)頭取となり、中央では貴族院議員として活躍しました。そして、この人は八代目に六代目の三男・吉六の子を養子として迎え、自分は@長谷川家初代となりました(『山形の紅花商A長谷川家、吉郎治家(屋号○中)』(井筒屋社長・榎森伊兵衛、山形新聞2012年(平成24)4月14日)。
天童に設立された私立病院は、置賜県病院医員の菊池篤忠・藁科松柏・中条玄休・堀内亮之助・西野佐久の5人を雇い入れて、交互に勤務させていました。しかし、天童が片田舎のためにその目的を十分果たすことが出来ず、佐藤伊兵衛・長谷川吉郎治に直則も参画して、山形県参事関口隆吉に対して、山形に病院を移転創建することを請願しました。結果、元本陣であった山形七日町小清水俊蔵宅(現在の山形銀行本店所在地)を買収し、1873年(明治6)12月に病院を移転し、同時に公立病院として「官立仮病院」と呼ぶようになりました。山形県は、この病院に引き続き置賜県病院から4名の医員を2名ずつ交代で勤務させるとともに1カ月の奉給を一人25円と定めて補助を行いました。そして、1874年(明治7)1月8日、官立仮病院を「山形県公立病院」として開院式を挙行するとともに、医学局仮規則を制定しました。5月には、山形県公立病院教場規則を制定し、東京医学校教員(少助教)であった海瀬敏行(置賜県士族)を病院長として招聘し、治療と医学教育の両方を担当させることにしました。
なお、本陣というのは、『江戸の用語辞典』(江戸人文研究会編、廣済堂出版、2010年2月1日第1判第1刷)によれば、江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された施設のことで、旅籠ではないので、もっぱら宿役人の屋敷や寺院が使われ、門と玄関には宿泊する大名家の定紋幔が掛けられたそうです。頻繁に大名行列が通る宿場では脇本陣が用意されており、この脇本陣は、本陣の予備的な施設で、本陣だけでは泊まり切れない場合や、藩同士が鉢合わせたような場合に格式が低い方が宿とした施設で、普段一般の旅籠として使っていたところもあつたそうです。旅籠町の後藤小平治は脇本陣(本陣の時もあったようです。)でした。
3 病院と医学寮の被災、再建
1875年(明治8)2月5日、工場の建物であったといわれる医学寮が積雪のため倒壊する惨事が発生し、学生2名が圧死すると共に、そこから発生した火災により山形県公立病院も全焼してしまいました。全焼した病院は前述の旅籠町旧脇本陣後藤小平治宅を借りて再開しましたが、山形県公立病院の本格的再建は七日町地内で行うことになり、同年(明治8)3月、山形県大属河野通倫(元熊本藩士)、酒田出身の九等出仕筒井明俊(1837〜1893)が建築掛に、小林左吉(傭工)が棟梁に任命されました。
新病院は香澄町旧三の丸大手塁側(現山形市立病院済生館のある場所)に新築することになり、3月着工し翌年の9月に竣工しましたが、医学寮は、焼失した旧病院跡地に再建されました。この新築移転した病院は1964年(昭和39)に解体撤去されるまで産婦人科病室として使用されていたそうです(『日本病院雑誌』(1994Vol41. No1)に掲載の<病院の年輪>「三層楼」(山形市立病院済生館館長・櫻田俊郎))。
新病院竣工直前の8月21日にそれまでの山形・置賜・鶴岡の三県が統合されて山形県になり、鶴岡県令であった三島通庸が初代山形県令に任命され、山形に県庁がおかれ、山形県公立病院はそのまま統合山形県に引き継がれることになりました。
4 三島通庸山形県令の所信表明
三島通庸は、山形赴任に先立って東京に赴き、彼を重用した大久保利通に面談しますが、その際、大久保の質問に対して次のように答えています。今でいえば、県知事就任に当たっての所信を問われ、思うところを表明したということになり、これにより現在の山形県の基盤整備が開始されたのです。Cに掲げた事項については、地域開発の手段の一つとして地域医療の充実を提起したものです。事業に要する費用については、「その費用の多くは人民に課す。」としていました。
@道路を修理し、新道を開通し、運輸に便利を供し、人々が往来して民力を養い、知見を開くようにする。
A各地に学校を興し、人材を育成する。
B勧業を専らにして、製糸機器場と養蚕場とを設け、人民に率先して、これらを研究させ、博物館を置き工作を精良にするように努める。
C病院を創設して生を済(すく)ひ、生徒を置き、その術を講習させる。
D警察署と分署を設け人民を保護する。
E諸川を浚へ堤防を築き船楫(ふなかじ)の利を興す。F酒田の河港に堤防を築き、巨船を出入りさせる。
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5 山形県公立病院と庄内関係者、長谷川元良院長らによる救済院設立の盟約
1876年(明治9)5月、2年の任期を終えた初代山形県公立病院長兼医学寮教師を勤めた海瀬敏行に代って山形刑務所に入獄した陸奥宗光の主治医として知られる佐渡出身の長谷川元良(1835〜1896)が東京医学校から招聘されます。陸奥宗光の投獄経緯は次の通りです。1877年(明治10)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造、大江卓らが政府転覆を謀ったのですが、陸奥は、土佐派と連絡を取り合っており、翌年このことが発覚したため、除族のうえ、禁錮5年の刑を受け山形刑務所に投獄されました。しかし、ほどなくして伊藤博文の尽力により当時最新の設備を誇った宮城刑務所に移り、1883年(明治16)1月、特赦によって出獄を許され、ヨーロッパに留学しました。
長谷川元良院長就任時のスタッフの中に、前述の酒田出身の館長・筒井明俊がおりました。彼は歴代館長で唯一の行政官僚でしたが、ただ、彼は医学についての知識は持っていたようです。『庄内人名事典』によれば、筒井は、明俊の他に酉治(ゆうじ)・数馬・静庵の名を持ちます。天保8年(1873)、酒田愛宕神社の宮司、筒井真文の長子として酒田十王堂町で生まれ、17歳で江戸に上がって儒学者東条一堂の門に入り、後に医学を修めて多くの勤皇の志士と交わり、更に、長崎に赴いて修業を重ねました。戊辰戦争では庄内藩軍医として秋田方面に出陣、186年(明治2)、酒田に学而館(酒田民政局長西岡周碩が学制頒布前の1869年(明治2)6月に酒田天正寺に開設した学校のことです。)が設立されると招かれて教導となります。翌1870年(明治3)、刑部史生(けいぶししょう:刑部省の下級職員)として出仕し、1871(明治4)帰郷、山形県14等出仕として勤務し、以後庶務・学務・勧業・衛生の各課長を歴任、歴代県令の片腕として活躍しました。1880年(明治13)東村山郡長、1882年(明治15)4月には山形県公立病院館長になりました。(注)同年8月、司法省から判事に任じられましたが、その後上京して警視庁第四課長となり、晩年は、郷里に帰って、大物忌神社に宮司として奉仕しました。57歳で没し飽海郡蕨岡墓地に葬られました。筒井は以上のように特異な職歴を有する人でした。
(注)『日本大学学術研究助成金研究 山形県済生館の洋学史的研究』(小形利彦、2011年(平成23)6月24日、大風印刷)の95頁「1880年(明治13)3月 山形県済生館職員表」から、また、山形県立博物館のボランティア・木村彌一郎さんの資料(筒井明俊の履歴)から見て、アンダーラインの部分は、「1878年(明治11)東村山郡長、1880年(明治13)山形県公立病院済生館長、1882年(明治15)山形県を依願退職」とすべきです。
また、この頃館医兼教員に服部 済がおりました。彼は、嘉永元年(1848)、山形県西田川郡鶴岡(現鶴岡市)で生まれ、1873年(明治6)、私立新潟病院(現在の新潟大学医学部の前身)で医学を学んで帰郷しました。長谷川元良院長の部下として医学寮の発展に尽力するとともにローレッツ辞任後の済生館病院や医学寮の医療機器充実のため、1883(明治16)2月に上京しています。多数の医療機器・治療用具の買い付けを行ったことや1912(明治45)発足の山形県医師会初代会長に就任したことでも知られてるようです。
長谷川元良院長就任により、ドイツ語を使用した医学教育が行われるようになり、また、近代医学の発展には優秀な医師の育成と近代的な医療機器の発明や開発が重要でしたが、1877年(明治10)の春、長谷川元良院長は、三島県令の許可を得て、人物像は明らかでは無いのですが東京浅草に住み、松本喜三郎と同じ生人形師とされていた神保平五郎に「紙愬人工体(人体模型)」を造らせました。その模型は精巧緻密で舶来品に劣るものでなく、東京上野第1回博覧会で龍紋賞を受賞したことが1879年(明治12)5月17日付山形新聞で紹介されました。天童で私立病院を創設した佐藤伊兵衛は、大坂新地で人気を博していた生人形を見聞し、人形の精巧さに関心を寄せていたらしく、それが、後に、神保平五郎が佐藤伊兵衛屋敷近くに寄寓し、済生館のキンストリ―キ(人体解剖模型)や吉田大八像を製作することになったと推論されています(『郷土博物館便り(84・平成21年10月1日発行)』(済生館創設者佐藤伊兵衛家をめぐってー人体模型製作者神保平五郎との関わりー・山形市文化財保護委員会委員・野口一雄)。
1877年(明治10)3月、長谷川元良院長を盟主とする山形県公立病院詰会一同による「救済院」(後に増築されたいわゆる済生館本館)設立の動きが具体化しました。これは、長谷川院長以下病院の全職員が奉給の1カ月分を県に寄附した金を基に山形県公立病院の敷地内に施療機関としての救済病院を増築してほしいというもので、5月になって県令三島に提出され、1877年(明治10)8月に全国に先駆けて開催された最初の県議会(これは、県内有力者を招集した、単なる県の諮問機関としての官選議会であって、公選議会は、1878年(明治11)7月の政府の「府県会規則」に基づき、1879(明治12)3月に開かれたものが第1回山形県議会です(『山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男著、昭和45年9月1日1版1印刷発行、株式会社山川出版)。)で病院の増築の案件が議決されています(『日本病院雑誌』(1994 Vol41.No1)に掲載の<病院の年輪>「三層楼」(山形市立病院済生館館長・櫻田俊郎))。
6 救済院(済生館)の増築
前述の通り、火災により焼失した病院に代る新病院は1876年(明治9)9月に完成するのですが、新病院建築の際、三島県令はすでに今後の病院の増築(いわゆる済生館本館)を考えていたようです。具体的には、その前の1877年(明治10)7月、三島は、長谷川元良院長と筒井明俊病院建築掛を上京させました。上京した二人は、東京大学医学部病院や陸・海軍病院を視察し、また、三島自身も東京大学医学部教授三宅秀を訪ねています。東京大学医学部病院視察で彼らを世話したのが長谷川元良院長と同郷の大平骰助手で、これが縁で後に三島は、大平骰を館医(医学寮教頭)に招聘しました。
大平骰については、2004年11月26日に、庄司英樹さんが『われらの大先輩大平驩さん』と題して投稿した中にも出てきますが、嘉永6年(1853)10月10日に、医師大平昌隆の子として佐渡国相川に生まれています。大平家は代々佐渡奉行所の詰医で、骰は幼少の頃、丸山溟北について漢学を修め、後に東京大学で助手として医学を研究しました(『荘内人名事典』)。山形での館医(医学寮教頭)としての勤務は、公立病院の増築(済生館)が竣工した翌年の1879年(明治12)だと思われます。前述の『われらの大先輩大平驩さん』の中で、荘司さんは、『・・・1881年(明治14)秋、明治天皇の東北御巡幸の先触れ検分使大久保利通が酒田の旅舎で発病の際、見舞い医師として山形から派遣され、そのまま町医者として住み着いた。』と述べていますので、『荘内人名事典』でしらべたところ、酒田本町での開業が1880年(明治13)とありましたので、公立病院(済生館)勤務は1年ということになります。なお、『荘内人名事典』には、名医の名あり、富豪本間家の信用も厚く長く飽海郡医師会長を勤めたとあります。更に、希代なことに、私の母方の曽祖父で2代目三山神社宮司を勤め、国学者でもあった星川清晃に和歌を学んだということです。1921年(大正10)69歳で亡くなり、酒田の海晏寺に葬られました。大先輩の大平驩さんは、この大平骰の二男で、兄で長男の大平得三さんも1900年(明治33)3月卒業(第8回)の大先輩に当たり、母校・九州大学医学部教授を勤められ、また、禁酒、禁煙論者としても著名でした。
7 病院本館(済生館)の増築工事
1878年(明治11)2月、三層(尖塔があるので外見上は四層に見えました。)の本館とそれに連なる回廊の病院本館の増築工事が着工されましたが、本書では、前年の1877(明治10)秋、三島県令が肺炎を患った際、長谷川院長の診察によって全治したため、三島はこれを大いに喜び、7月に上京した長谷川元良院長と筒井明俊病院建築掛の調査結果に基づく病院増築の最終決断を行ったと推察しています。
本館の設計は、筒井明俊が行い、棟梁(施工者)に鹿児島出身で山形県十等出仕原口祐之、地元山形の大工佐藤周吉が采配を振るい、周吉の二男安蔵が現場監督となって工事は進められました(注)。高さ 24.77メートル、木造下見板張り3階建て擬洋風建築の経費は4万3千25円20銭8厘の予算で建物は9月に竣工しました。1階は正面玄関部分が八角形、ここを挟むように後半部が14角形ドーナツ型回廊付きで、2階は16角形の広間で屋根はドーム形、3階は階段室、4階は8角形の小屋でした。そして、2・3階の正面にはバルコニーが張りだし、4階には手すり付きの回縁を設けてありました。間取りの意匠や建築技法の斬新さは、明治初期における擬洋風建築の歴史を示すものとして1966年(昭和41)に国指定の重要文化財となります。また、部屋としては、中央講堂、院長室、診察局、手術室、薬局、事務室、患者控室等で近在から大勢の見物人が来たといいます。長谷川院長が太政大臣三条実美に扁額の揮毫を依頼したところ「命を救う」と言う意味の「済生館」と命名したので、三島県令は、この旨を明治12年2月17日付で県内に布達しました。丁度この頃山形を旅行中のイザベラ・バードは、7月16日に山形を通過したと考えられているのですが、『日本奥地紀行』(高梨健吉訳、2000年2月15日初版第一刷、平凡社)には、「・・・大きな2階建の病院は、丸屋根があって、 150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常に立派な設備で換気もよい。・・・」と書いてあります。つまり、バードはまもなく完成する建築中の済生館を視察したことになります。
(注) 設計者については本稿とは別に検討します。
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