山形県公立病院・済生館に関係した庄内ゆかりの人々(2〜2)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
山形県公立病院・済生館に関係した庄内ゆかりの人々(2〜2)
8 三島県令の済生館完全県営化と国、県の諸施策の実施
 政府は、1878年(明治11)7月、太政官布達第18号で「府県会規則」を公布しますが、県令三島は、1877年(明治10)7月16日、4章18条からなる「山形県会議規則」を公布します(注))。そして、8月の会議において、三島は、議題の一つに「病院・医学寮を独立採算制から完全県営にする議案」を提出しました。これまでは医学寮の人件費・諸経費を県が支出し、運営は病院に任せていたものを改め、完全な県営にしようとする内容でした。1879年(明治12)2月には、「病院及び教育費」が済生館県営の諸経費と共に提出され、また、人事では、一等属衛生課長筒井明俊を館長兼務(月給80円)に任命し、長谷川元良院長は医局長兼薬局長心得(月給 100円)にすることが認められました。なお、前述の服部 済は、このとき館医兼教員で月給25円でした。
(注)) 政府の太政官布告以前に山形県会が設置されたのは注目に値しますが、議員は公選を原則としながら、官員と区戸長、里正(庄屋、村長)も公選議員と同格の発言権と議決権を与えられるなど、問題が多く、官選県会あるいは諮問機関とみなした方が適切といわれています。
 更に、三島県令は、優秀な医学寮生徒を確保する目的と済生館に勤務する医員の確保、地域で活躍する郡医養成を目的に「山形県済生館貸費生規則」を制定しました。一方、政府は1874年(明治7)の「医制」発布に続いて1876年(明治9)、「医師開業試験をせしむ」(内務省達乙第5号)、翌年の1877年(明治10)、「医術を以て奉職する者は試験を須(もち)いず免状公布」(内務省達乙第76号)を布達します。しかし、1879年(明治12)には、医術を開業する者に試験を義務付ける「医師試験規則」(内務省達甲第3号)が施行されました。この「医師試験規則」は、地方の公立医学校の医学教育になお一層の質的向上と近代化を求めたものであり、山形県は済生館を試験実施機関にし、さらにドイツ医学を教授出来る医学教師を招聘するなど医員の充実をはかることにしました。このような背景のもと愛知県医学校、石川県金沢医学校で業績を残したローレッツの招聘が行われたのです。
9 ローレッツ招聘
 ローレッツは、1880年(明治13)8月30日金沢を出発し、9月10に山形に到着、後藤又兵衛旅館に入り、後に香澄町の薄井参事住家後に移住します。そして、山形県は、1880年(明治13)10月7日付乙第184号で済生館医学寮教頭にローレッツを雇入れたことを布告しました。また、済生館医学寮を医学校としてその形態を本格化するため、「山形県済生館医学寮生徒教導規則」を新たに制定しています。医学寮は、1881年(明治14)1月8日に開講式を挙行し、授業科目は、理学、化学、動物学、植物学、鉱物学のほか解剖学、組織学、病理学手術学などローレッツが履修したウイーン大学医学の授業科目がドイツ語でなされました。さらに、医学生数もローレッツの赴任を機会に50名を限り試験で選抜するように見直されました。なお、ローレッツの月給は300円で、当時の三島県令の月給の3倍、済生館館長の6倍近い高給だったそうです。ローレッツは「老烈」と名乗り、病院にドイツの薬品や医療器具を取り入れ、この医学校は東北地方におけるドイツ医学のメッカとなりました。なお、第2回東北巡幸の明治天皇は、1881年(明治14)9月30日に山形に到着していますが、済生館には有栖川宮が代巡し、当日夕刻三島県令、山吉福島県令、永山新潟県令、宮島久家山形県議会議長、堀木 実副議長、細較 温議員らと共に、ローレッツも長谷川吉郎治をはじめ47名が予算3千円を以て山形県共立勧業博物館敷地内に新築した行在所を訪れ、明治天皇に拝謁する機会を得ています。
 余談になりますが、ローレッツの愛知医学校時代の教え子に後藤新平がおり、年月日は不詳ですが、後藤が郷里の岩手県水沢に墓参帰郷する途中、ローレッツを訪ねて冬の山形を訪問しています。後藤新平は、仙台支藩・水沢藩の藩医の家に生まれており、1874年(明治7)、17歳で須賀川医学校(1872年(明治5)に設立された公立岩瀬病院に翌年併設された医学校です。)に学びました。1876年(明治9)の卒業後には鶴岡の病院勤務が決まっていたのですが、新平を見込んで取り立ててくれた恩師、胆沢県(いさわけん)大参事であった安場保和が愛知県令になったため、彼について行くこととなり、1876年(明治9)、愛知医学校で医師になった経緯があるのです(フリー百科事典ウィキペディア)。 明治の初期に鶴岡町に住む人々は約3,000世帯、2万2千人、それに代々家業を継ぐ医師が100人ほどいたようです。この医師達が協同運営の病院設立を目論見て、1877年(明治10)、街の中心馬場町に小さな病院が開設されました。しかし、2年余で廃止され再建することはありませんでした(『図説鶴岡のあゆみ』(鶴岡市史編纂会、2011年3月31日)。後藤新平が赴任を予定していたという鶴岡の病院とは、この病院ではなかったのかと思われるのです。
10 三島県令の転出・政府の医制改革・山形県義会の動向とローレッツの離県
 ローレッツや済生館の後ろ盾となっていた三島県令は、1882年(明治15)1月25日付で福島県令兼任となり、更に、7月13日付で専任福島県令として離県してゆきます。そして、三島県令の転出に加え、政府の医制改革の動きも重なり、医学寮の事態も複雑化することになります。まず山形県議会の空気も高額な外国人教師の招聘によらず、東京大学医学部卒業生を採用すべきとの考え方が主流になり、政府の医制改革の動きがこれに拍車をかけるようになりました。すなわち、政府は、医学校を甲乙の2種類とするため、1882年(明治15)5月27日付で「医学校通則」(文部省達4号)を公布し、さらに7月15日付で「医学校通則」の施行手続き(文部省達5号)を各府県に通達しました。甲種医学校は、尋常の医学科を教授して医師の具成を図り、乙種は簡易の医学科を教授して医師の促成を図るもので、差別化が図られることになりました。結果、岡山、千葉、愛知、京都、大阪、長崎、神戸、和歌山、広島、三重、金沢等が甲種医学校に認可されましが、山形県ではローレッツの解任議決に等しいような建議が行われ、ローレッツの使命に終わりを告げようとしていました。このような県内事情により、ローレッツは、済生館医学寮教頭を辞任して、1882年(明治15)7月26日早朝、東京を目指し山形を発って行きました。ローレッツは、山形のほか名古屋や金沢での医学教育での功労が大きく帰国時に日本国政府から「勳五等双光旭日章」を授与されています。
 済生館は、後述するように山形市立病院となるのですが、前述の通り1969年(昭和44)に旧済生館が国の重要文化財に指定されたのを機に、病院全体が全面改築となり、旧済生館の本館だけは山形城跡の霞城公園に移転・修復され「山形市郷土館」として保存・公開されています。ここにローレッツの顔のレリーフ付き記念碑が現在も来場者を静かに見守っています。なお、現在の病院の正面玄関前の旧済生館本館跡地は、カスケード(階段式の流れ)をもった庭が整備され、その一隅に旧済生館本館をイメージした休憩舎が建っています。
11 政府による相次ぐ諸規則の制定
 ローレッツの辞任後、医局長兼薬局長心得の長谷川元良を館長に任命して医学寮の再興を託しましたが、長谷川もほどなくして辞任します。館長不在が続きましたが、1883年(明治16)2月、旧佐土原藩(現宮崎県)で東京医学校教諭の木脇良が館長に就任しました。
 一方、政府は、医制改革のテンポを緩めることなく、1882年(明治15)2月、「医学校卒業生試験を要せず医術改行免状下附」(太政官布達第4号)で、@3名以上の医学士欧米の大学に於いて卒業したるもの等、其の履歴により、本条に準ずることあるべしを以て教諭に允つること、A生徒の員数に相当せる助教を置くこと、B4年以上の学期を定め、教則並びに試験方法の完備せること、C付属病院ありて生徒の実地演習を為す事と特例を認め、さらに、「医師試験規則」の中に「修業履歴書は3年以上就業の実跡を明記する者に非れば試験せず」(内務省達乙第13号)の特例を追加しました。また、3月になると「開業医の子弟にして、その助手と成り医業を以て家名相続を欲する者は、試験を要せず改行許可」(内務省達乙第14号)と既得権を追認するような布達をしましたが、4月には内務省達乙第26号で、「この特例は15年8月限りとする」と改訂しています。このような相次ぐ規則の制改定は医学校に大きな影響を及ぼし、特に10で述べた「医学校通則」は、医学校を目的、学科数、修業年限、授業日数、授業科目、教員の構成などで甲種(修業4年)、乙種(修業3年)に区別し差別化し、各地の医学校に大きな影響を与えました。更に、翌1883年(明治16)10月23日付で「医師免許規則」(太政官布告第35号)が公布され、医師資格が国家資格であること、官立及び府県立医学校の卒業者は卒業証書があれば、それを審査し、試験を要せずして免状を授与できること、改行免許を得たものは、医籍登録と広告をすることが公布されました。更に、太政官布告第34号により「医術開業試験規則」が公布され、これに基づく内務省告示で試験の実施時期、場所等が告示されています。そして、12月には該達に準じる医術開業免許状授与申請を促すための内務省達乙第47号「明治10年内務省乙第76達以後奉職の者医術開業免状出願期日」が出されています。
12 山形医学校の発足と問題点
 山形県では済生館医学寮を改組して乙種医学校とすることにし、折田平内山形県令は、1884年(明治17)11月「山形医学校規則」(乙第115号)を布達して翌年1月から施行しました。乙種医学校であるため、修業年限を3年半年とし、授業科目は、解剖学、内科、外科臨床講義、内科・外科各論、内外科、外来臨床講義等極めて実際的科目で、甲種学校の教育内容をさらに簡便にしたものでした。かつて、ローレッツが提案した備品の充実は服部 済の手によって一部整理され、更に、1885年(明治18)になって文部省から幻燈機、顕微鏡、組織プレパラート等が下付され、早速授業や講演会で使用されました。しかし山形医学校生徒は、卒業後、甲種医学校へ入学するか、改めて試験を受けるかなどのさらなる努力が求められたため、山形医学校は非常に困難な船出になりました。
 1886年(明治19)、仙台で行われた医術開業試験の前期試験では、8名中6名の合格者を出しましたが、翌年の試験では4名となり、このような少ない合格者の問題は乙種医学校の存在価値についての議論となり、山形県議会でも医学校の存廃議論に発展しました。更に、政府は、1886年(明治19)3月の帝国大学令に続き、4月に中学校令を公布して、同年及び翌年にかけて地方における最高学府的色彩の官立高等中学校を東京(第一)、大阪(第三)、山口、仙台(第二)、金沢(第四)、熊本(第五)、鹿児島に設置するとともに、1887年(明治20)、地域の医学専門家、医療技術者養成を目的として官立高等中学校に医学部を設置し、これにより仙台、千葉(第一高等中学校分)、金沢、岡山(第三高等中学校分)、長崎(第五高等中学校分)の5校に医学部が設けられました。このような情勢のもと、1886年(明治19)12月の山形県議会では、済生館の経費や奉給を削減し、むしろこの経費で山形医学校を甲種医学校にすべき等の意見が出されたのですが、結果として、従来通り済生館に関連する予算は原案通り議会で可決されました。
13 山形医学校最後の校長・庄内出身の栗本庸勝
 1887年(明治20)2月1日、木脇 良医学校長兼済生館長と土佐林豊一等助教諭が離任し、同日、山形県は新たに「山形県医学校事務章程・職制並びに職員奉給額」(学達第72号)を布達し、医学校長と済生館長の兼務を見直し、校長職と館長職を分離しました。そして、医学校長の後任として庄内出身の栗本庸勝(くりもと つねかつ)が、済生館長に山形出身の鳥居春洋が任命されました。
 栗本庸勝は、山形県西田川郡大山(現鶴岡市大山)の医家、栗本節安の養弟で、1887年(明治20)、帝国医科大学卒業後、月奉120円で医学校長に迎えられ、外科通論、外科眼科臨床講義を担当しました。後に仙台医学専門学校教授に転じ、更に、内務省衛生局に所属し、度々酒田を訪れて、上下水道の実施を講演で説き、1930年(昭和5)、酒田での上水道の完成を見ています。最終的には警視庁衛生局警察医長四等で終えているようです(『郷土の先人《伊東清基》』(荘内日報社)、『斉藤茂吉と青山脳病院再建』(小泉博明、日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10.365―376 (2009 ))。
 当時警視庁は、内務省の地方官庁として東京の警察を管轄していました。また、明治時代の公衆衛生は防疫対策が主でしたが、しかし、対策は伝染病患者の隔離や営業の取り締まりが中心で、これを警視庁が担っていましたので、警視庁の組織に衛生・防疫・医務・獣医などの担当部門がありました。
 前述の「養弟」という言葉は、父母の養子で、自分より年下の男子のことをいうようですが、父の栗本節安(天保11年(1840)11月〜1910年(明治43)10月)という人は、大山の栗本良意の長子で、栗本家は代々医家でした。安政元年(1854)、15歳のとき米沢に赴き、水野道益について医学を修め、安政5年(1858)、コレラ蔓延のため大山に帰って医療に従事しました。元治元年(1864)、横浜に出て宣教師ヘボンについて西洋医学を修得、翌慶応元年(1865)には蘭医伊藤玄朴のもとで代診を勤めました。後に内外科医の免状をうけて帰郷、県・郡の検疫医を命ぜられ、その後大山で開業します。近代的医術を施して好評を得、患者が殺到したといいます。30余年間警察医も兼ね、医業のかたわら漢詩を嗜み、71歳で没し、専念寺に葬られました。弟に栗本東明がおり、この人も狂犬病の予防注射液を発見した医学者でした(『庄内人名事典』)。
14 山形医学校の閉校
 山形医学校への入学者の減少傾向が続き、生徒募集に尽力しているさなか、1887年(明治20)9月30日に「明治21年以降、医学校費用の地方税支弁禁止(勅令第48号)」が突然政府から出されました。この勅令の意味は、今後、医師の養成は国の責任で行うというものでした。これにより多くの公立医学校は,廃止の道を選ばざるを得なくなり、山形県でも県議会での存廃論議を受けて医学校廃止を決定し、1888年(明治21)2月5日付で、『山形医学校は本年3月31日限り廃止す』と告示しました。その後1973年(昭和48)に山形大学に医学部が設置されるまで県内から医学教育の拠点が消えることになるのです。
15 済生館病院存続への道
 1886年(明治19)7月20日に就任した柴原和知事は、1887年(明治20)11月開催の県議会において「済生館病院を民間に払い下げる意向」を表明しました。
 そこで、済生館の創設者であった長谷川吉郎治やその一族、市内の豪商三浦権四郎、新関善八らの有力者が出資を募り、済生館病院の払い下げを県に陳情しました。結果、山形県は済生館施設一式を無償貸与することになりました。その結果、鳥居春洋を院長とする「私立済生館病院」がスタートするのですが、経営の安定は成らず、厳しい経営状態が続きました。この間、1889年(明治22)4月、山形市は市制をひくことになります。
 このような状態を見た柴原知事は、無償貸与契約の第2期契約更新時に当たり、1,892年(明治25)11月県議会に対して県費1,200円の病院補助を提案しました。これについては、反対意見もあり、議会の審議はもめたのですが、最終的には山形市選出の重野謙次郎議員の努力によって可決の運びとなりました。
 1899年(明治32)頃の済生館病院は13名の職員や2名の助手、27名の看護師を擁しながら1日平均外来患者50名程度、入院患者60名程度であったといわれ、経営的には破産状態で、自分が引き受けると主張する医師もいましたが、1902年(明治35)には、院長も病院の廃止は止むを得ずと思う次第でした。
 これを知った元内務官僚で、前山形県会計課長であった山形市の菱田義民助役は、『山形市にとって済生館病院は必要な施設であり、山形市が引き取って存続させるべき』との強い意思を表明し、1902年(明治35)12月の市議会に「済生館病院の買い取りと医療施設の充実」を提案し、山形県も引き続き無償貸与を継続することになりました。市議会での議論は紛糾したものの、菱田助役の市による経営についての熱弁、岩淵栄治議員の賛成意見に集約され、最終的には満場一致で提案議題は可決され、この結果、1904年(明治37)4月から済生館病院は「山形市立病院済生館」として管理運営されることになり、現在に至っています。
 以来、職制を改め「院長」を「館長」と改称し現在に至りますが、校友である平川秀紀さん(第75回、昭和43年卒)が2005年(平成17)4月から、第18代館長として就任し、地域の基幹病院としての使命を果たすべく、また、市民に親しまれ信頼される病院を目指し鋭意奮闘されています。


2012年9月1日