森林に降る雨には三つの区分がある
9月23日、「白川ダムビジョン推進会議」主催の"自然観察会"に参加する機会を得、飯豊町の白川ダム湖畔の「矢淵(やぶち)のブナ林」を久しぶりに散策してきました。この「矢淵のブナ林」は1986年(昭和61)に山形県、株式会社山形新聞社、山形放送株式会社、それに山形県緑化推進委員会(現財団法人山形県みどり推進機構の前身)の四社が山形県政110周年、山形新聞創刊110周年を記念して県内各地から「グリーンやまがた 110景」を選定した際、その一か所として選定されたところです。そして、この一帯は、私が初代源流の森館長を務めた縁で、現在もインタープリタ―(注)としてボランティア活動をしている「源流の森」のエリアの一部にもなっています。
(注)自然が発する色々なメッセージを分かりやすく来訪者に伝え、自然との触れ合いを通じて喜びや感動を分かち合えるようにする「解説活動」を「インタープリテーション」(interpretaion)といい、その「解説活動を行う人」を「インタープリター」(interpreter)といいます。
白川ダム及び親水護岸や散策路、オートキャンプ場などのその関係施設を積極的に開放し、活用してもらうことにより、ダム水源地域の活性化に資する取り組みを行う際のガイドラインとするため、国土交通省が山形県、飯豊町・飯豊町住民と共同で作成した「白川ダム水源地域ビジョン」というものがあります。そして、このビジョンの内、地域住民主体の取り組みが可能なものを推進するために2005年(平成17)に組織されたのが「白川ダム推進会議」で、飯豊町がその事務局を務めています。その具体的推進活動としては、融雪期の白川湖体験巡視、四季を通じての自然観察会、小学生主体によるダム上流と下流の水質調査、地域住民による河川の支障木伐採、ごみ除去などの環境整備などがあります。
「源流の森」は、山形県が森林における保健休養、自然学習、森づくり、都市と山村との交流の場等として、1997年(平成9)に飯豊町中津川に開設したものです。その管理・運営は、財団法人山形県みどり推進機構が受託しおり、現地管理運営機構である「源流の森事務所」には、櫛引出身の校友・佐々木(松田)洋雄さん(第70回(昭和38年卒))が所長として、また、インタープリタ―として活躍しています。
「矢淵のブナ林」へ行くには、車で国道 113号線を新潟方面に向かい、JR「手の子駅」の手前の白川に架かる「手の子橋」を渡ってすぐ左手の県道4号線(米沢飯豊線)へと入り、中津川方面に約10.2キロメートル進みます。そして、鉄錆色に塗装された美しい形のアーチ橋・「中津川橋」(考案者の名にちなんでニールセン橋と呼ばれます。)を渡ったらすぐに左手の林道に入り、しばらく進むとほどなくコンクリートの橋が見えてきます。これを渡ると小面積の広場に到達します。こからは案内板のある散策路に従って進みます。尾根裾を廻り込んでから尾根に上り、アップ、ダウンを繰り返しながら進むと20〜30分ほどで平坦地にあるブナ林に至るのですが、尾根筋には、乾燥地に生育する葉が5本ある「五葉松(ゴヨウマツ)」が多く見られます。ここのブナ林は,薪炭林として人手が加わったものの、スギなどが植林されることもなく樹齢 300年ほどと思われる少数の大径木を除けば、そのほとんどが樹齢 100年程度の若いブナの純林で占められています。地形が平坦なため、豪雪地帯の斜面で見られる雪圧で根元の辺りが曲がった、いわゆる「根曲がりブナ」はほとんどなく、地際から直立しているブナが大半で、しかも、原生林でないために下草類やヤブツバキなどの下木も密生しておらず、ブナの純林で比較的明るい散策しやすい林となっています。
山歩きは天気に恵まれることに越したことはないのですが、この日は朝からあいにくの雨模様の天気となってしまい、雨具着用となりました。それでも林の中は、靄が立ち込め、それなりに幻想的で風情があり、しかも晴天時では見ることが出来ない「樹幹流」の様子を観察することが出来ました。
森林の酸性雨を研究している人々は、森林に降る雨を、「林外雨(りんがいう)」、「林内雨(りんないう)」(樹冠雨(じゅかんう)ともいいます。)、それに「樹幹流(じゅかんりゅう)」(あるいは樹幹流去水(じゅかんりゅうきょすい)ともいいます。)に区分けしています。「林外雨」とは、樹木の葉や枝や幹に触れることなく、直接林床に落下してくる雨のことであり、「林内雨」とは、林外雨が木の上部にある枝や葉が集まった部分を指す樹冠を通って地面にぽたぽたと降り落ちる雨のことをいいます。最後の「樹幹流」は、樹木の樹冠に降り注いだ雨が樹木の幹を伝わって根元までに流れ下って来る雨のことを指します。
ブナの樹皮は剥がれ落ちることがなく平滑なので、樹幹雨が筋のように流れ下る様子がよく観察できます。根元まで流れ下ってきた樹幹流は地際で泡を発生させ、そこからは朽ちた葉でスポンジ状になった腐食土壌の中に吸い込まれるように浸透していきます。
雨は空中に漂っているチリやホコリをとりこみながら樹冠に達します。樹冠を形成している葉や枝にもチリやホコリが付着しているので、樹冠に達した雨はここでもさらにチリやホコリを取り込みながら枝を伝わり幹に達して樹幹流となります。葉の表面を流れる際には、葉自体からでる色々な物質を洗いだします。また、幹には苔類や色々な微生物が生息しているので、いろいろな代謝・分解物も樹幹流に取り込まれていきます。従って、樹幹流の化学的性質は樹種や、同じ樹種でも樹齢や樹勢等によって異なることになります。このように見て来ると、林内雨と樹幹流は、林外雨とはその性質を異にしていることが理解できます。また、樹幹流は林内雨に比べて量的には少ないのですが溶け込んだ物質の濃度は高くなります。
余談ですがブナの葉の縁は波形で、主脈から両側に分岐する側脈の終端が鋸歯の凹部に入ります。断面的には、側脈と側脈との間が上向きに湾曲しており、側脈が丁度溝のような格好になっているのが顕著です。つまり、このような葉の構造は、雨水を主脈から枝や幹の方へと流れ易くしているのではないかと思われます。
ところで、酸性度を表す指標値に「ペーハー(ph)」と言う言葉があります。周知の通りph7が中性、ph7未満は酸性、ph7より大きければアルカリ性です。純粋な水は中性ですが、雨には大気中の二酸化炭素が溶け込んでいるため、汚染されていない場合でもそのph値は弱酸性となります。なぜなら二酸化炭素は中性ですが、水溶液は酸性になるからです。
針葉樹の樹冠は広葉樹の樹冠に比べて大気中の物質を捉えるといわれており、事実、スギの樹幹流のphは低く、『樹幹流を巡る話題』(独立行政法人森林総合研究所九州支所)によれば、千葉県我孫子市の一般財団法人電力中央研究所での測定結果では、スギの独立木で測定した樹幹流のphは3.5〜3.7でした(この時の林外雨はph5.8〜6.5、林内雨はph5.4〜5.7)。このようなことからスギの周辺の土壌はかなり酸性化しており、酸性雨との関連が指摘されるようになりました。
一方、『岩手県林業技術センター研究報告書』(6,1996)によると、ブナ、ヤマナラシ、オニグルミ,センノキ、ユリノキなどの広葉樹の樹幹流は、酸性が緩和されており、その時のph値は、ほとんどのものが4.8以上を示し、特異なのは、ヤマナラシで 6〜7.5、ブナでは5.8〜6.7の範囲を示しています。逆に、オオヤマザクラ、コバノヤマハンノキ、ホノキなどではむしろ酸性を強める傾向がみられます。また、名古屋大学農学部の研究報告(1998年12月)では、平滑な樹皮を持つブナやミズメの樹幹流からはカリュウムの検出が多かったことが報告されています。さらに、カルシュウムは樹木に付着した沈着物から溶出すると聞いたことがありますが、カリウムやカルシュウムなどの塩基成分は、酸性に対して高い中和機能を有しており、従って、雨水は樹幹を流化する過程で中和され、最終的には樹根部分の土壌の酸性化を抑止しするという理屈になります。
酸性降下物の流入による林内雨や樹幹流の酸性化は、樹木へ直接ダメージを与えるだけでなく、土壌の酸性化やそれに伴う森林植生の衰退の原因になることが指摘されています。現在、林内雨や樹幹流に関しては種々研究がなされているようですが、『ぶんせき』(日本分析化学会、1998年10月号)によると、樹冠・樹幹における林内雨・樹幹流発生や降雨中の蒸発現象のメカニズムの解明が完全にできていないこと、また、樹木間での林内雨・樹幹流の流下量にばらつきが大きいこと、任意の森林で、どの樹木に何リットルの樹幹流が流れるかを推定することがまだ出来ていないことなど、種々解決すべき問題点があるようです。しかし、今後の研究次第ではこれらの問題点が解明され広葉樹の樹種ごとによる樹幹流の特性を生かし、スギなどの針葉樹の単一植林で低下してしまった土壌の力をヤマナラシ、ブナなどの広葉樹を混交した林にすることによって復活させ、森林の生産力を上げてゆくことが出来るかもしれません。
矢淵のブナ林には終日静かに雨が降っていました。当たり前のようなこの自然現象には、実に奥深い事実が秘められていることを改めて認知した一日でした。
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