山形県公立病院「済生館本館(現山形市郷土館)」の設計者は誰だったのか

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 山形県公立病院「済生館本館(現山形市郷土館)」の設計者は誰だったのか
 2回に分け『山形県立病院・済生館に関係した庄内ゆかりの人々』と題する投稿を行い、酒田出身の筒井明俊が当該病院の設計者であり、その工事に当たっては鹿児島出身の原口祐之が棟梁であった旨を紹介しました。しかし、この原稿を書いた時点で、若いころ医学を修めたとはいえ、明治に入って以降は事務の仕事が長かった筒井明俊一人を設計者とすることに疑問を抱いてしまいました。そして、その後、各種文献等に当たったり、このことについて調べておられる方の話を聞いたりしているうちに益々その感を深くした次第です。そこで、今回はこのことについてもう少し検討を加え、最後に私見纏めてみましたので投稿します。
 なお、本文を纏めるに当たって、山形県立博物館ボランティアの木村彌一郎さんが纏められた資料(以下「木村氏資料」といいます。)をご本人の了解を得て使用させていただきました。
1 人名事典に見る筒井明俊
 最初に『新編・庄内人名事典』(庄内人名事典刊行会編纂、昭和61年11月27日発行、庄内人名事典刊行会発行)により再度筒井明俊について調べてみました(以下『人名事典』といいます。)。
筒井酉治(つついゆうじ) 数馬・明俊(あきとし)・静庵
 天保8(1837)〜明治26(1893)・10.・20 神職
 神職筒井真文の長子として酒田十王堂町に出生する。17歳の時江戸に上がって儒学者東条一堂の門に入り、のちに医学を修めて多くの勤皇の志士と交わり、その後長崎に赴いて修業を重ねた。戊辰戦争には軍医となって秋田方面に出陣、明治2年(1869)酒田に「学而館」が設立されると招かれて教導となる。翌3年刑部省出仕、4年(1871)山形県庁に入って、庶務・学務・勧業・衛生各課長を歴任、明治13年(1880)東村山郡長、同15年(1882)4月には県立病院済生館の館長となる。(注1)同年8月司法省から判事に任ぜられたが、その後上京して警視庁第四課長となり(注2)、晩年は郷里に帰って大物忌神社に宮司として奉仕した。『雑学雑誌』を刊行。57歳で没し飽海郡蕨岡墓地に葬られる。
参考資料
 田村寛三『酒田人名辞書』昭和49年刊、『百年の人物調査資料』(鶴岡市郷土資料館)、『酒田地区歯科医師会会誌』昭和58年刊
 上記『人名事典』の下線部分(注1)は、「木村氏資料」、『山形県済生館の洋学史的研究』の95頁に記載の1880年(明治13)3月『山形県済生館職員表』、明治13年9月1日改正『山形県職員録』(山形県立博物館専門嘱託野口一雄先生所有)からみて次のように訂正すべきです。
 1878年(明治11)7月22日に「区町村編制法」が制定され、村山郡は東・西・南・北の各村山郡になり、同年11月1日、筒井明俊は初代東村山郡長に就任、1880年(明治13)3月には衛生課長兼済生館館長となる。そして、1882年(明治15)8月28日に山形県を依願退職した。
 なお、明治13年9月1日改正『山形県職員録』には、我々の大先輩、ドイツ語の相良守峯(さがらもりお)、心理学の相良守次(さがらもりじ)兄弟の祖父・相良守典(さがらもりつね)が四等属・庶務課第五部(国史編纂)と地理課(地誌編輯)兼務で名簿に掲載してあります。
 それから(注2)については、三島通庸(みしまみちつね)が内務省土木局長に転じたのが1884年(明治17)、警視総監に就任したのが1885年(明治18)であり、筒井明俊が山形県吏員を依願退職して上京したのは、三島通庸(みしまみちつね)との関わりが特に深かったことを示しています。
2 履歴書に見る筒井明俊
 次に、「木村氏資料」を中心に筒井明俊の職歴を纏めてみます。なお、木村さんは『ふるさと』(郷土研究部報告書第2集、日本大学山形高等学校郷土研究部、1977.2・・・小形利彦氏が国立公文書館で発見されたもの)を参考にして纏めたということです。
                                  山形県平民 筒井明俊 天保8年3月生
西 暦 年(元 号) 年 月 日 履     歴 摘 要
1870(明治3)庚午7月27日 任刑部史生(刑部省)  
同年10月11日 免本官(刑部省)  
同年12月7日 任少属(山形県)  
1871年(明治 4)辛未正月14日 任権大属  
同年 5月 監正掛専務申付候事  
同年 9月 任山形県大属  
同年11月2日 庶務掛申付候事  
1872年(明治5)壬申2月 学校掛申付候事  
同年2月29日 城郭兵器等取調御用掛申付候事  
同年4月5日 市井掛申付候事  
同年7月 博覧会物品取調掛申付候事  
1873年(明治6)1月30日 徴兵事務調掛申付候事  
同年2月27日 徴兵議官申付候事  
同年8月14日 任山形県中属  
同年10月5日 公債掛申付候事  
同年12月5日 補山形県九等出仕  
1874年(明治7)2月8日 庶務課課長申付候事  
同年7月18日 議事掛申付候事  
1875年(明治8)1月7日 布教掛申付候事  
同年3月24日 病院建築掛申付候事  
同年4月20日 兼学務課課長申付候事  
同年6月19日 地方官会議第2合組合書記役申付候事  
>同年6月27日 補山形県八等出仕  
同年7月2日 学務課長差免候事  
同年9月19日 県庁臨時会議員申付候事
臨時大区会御用掛申付候事
 
1876年(明治9)1月27日 勧業課課長兼務申付候事  
同年2月3日 徴兵議官申付候事  
同年3月23日 代言任試験手続取掛申付候事  
同年3月27日 仮県会幹事申付候事  
同年8月12日 内国博覧会出品取調掛申付候事  
同年10月6日 任山形県大属  
1877年(明治10)1月18日 任山形県一等属  
同年5月7日 兼製糸場建築掛申付候事  
同年5月21日 病院建築掛申付候事  
同年7月25日 御用有之上京申付候事 長谷川元良と共に京
浜方面の病院視察
同年10月31日 兼製糸場建築掛差免候事  
1878年(明治11)2月   済生館本館工事着工
同年9月   済生館本館工事竣工
同年9月7日 衛生課課長申付候事  
同年11月1日 東村山郡長  
1880年(明治13)3月 一等属衛生課課長兼済生館長(歴代館長の中で唯一の行政官僚である。) 『山形県済生館の洋学史的研究』95頁・1880年(明治13)3月山形県済生館職員表
1882年(明治15)8月28日 依願免本官(山形県)  
 2002年度(平成14年度)の「山形大学公開講座」で同大学人文学部教授の岩田浩太郎教授が『やまがた・明治の時代背景』と題する講演をされた際、三島の政治手法の一つに県職員や郡長に藩閥(鹿児島士族・部下を重用)を徹底登用したことを指摘され、1880年(明治13)の山形県職員の出身地構成は、山形の士族が1位で46パーセント以外は、2位が鹿児島で17パーセント、3位が東京で15パーセントであったと述べられています。そして、1880年(明治13)9月1日改正「山形県職員録」で見ると三等属以上の幹部職員は3分の1が山形県出身者で、それ以外は鹿児島、東京、静岡県出身者で占められています。このような状況の中、筒井明俊はすでに見てきたとおり、山形県平民の出でありながら有能な人物であったと思われ、その職歴が多岐にわたり、県令三島通庸に重用されたことは容易に想像出来ますが、ただ、旧済生館本館の設計を筒井明俊一人で行ったとする説には同意しがたいのです。前述の木村彌一郎さんも長年の調査の結果、筒井明俊を設計者とすることに疑問を呈しておられます。
3 人名事典に見る原口祐之
 次に『新編・庄内人名事典』(庄内人名事典刊行会編纂、昭和61年11月27日発行、庄内人名事典刊行会発行)により原口祐之について調べてみました。
 原口祐之(はらぐちすけゆき)
生没年不詳
工事監督、旧薩摩藩士、明治9年(1876)酒田県令三島通庸の命を受け、貴島宰輔の指揮下で鶴岡馬場町に建設の洋風瓦葺き3階建朝暘学校(高さ6丈2尺8寸、建坪439坪、室数42、工人6万5,400人公費3万円)の工事監督に当った。鶴岡西郊「市井岡寺(せいこうじ)」境内に、同年8月に建立された原口の寿碑があり、碑の裏面に工事に参加した下記職人頭名の記載がある
(注)大工頭鶴岡大工町高橋権吉、同町石井棟治、大工小頭川北中島村斎藤文治、水沢村瀬尾平蔵、同瀬尾要太郎、鶴岡高畑町松村嘉吉、同荒町裏町佐藤伝吉、酒田近江町五十嵐伝次二郎、同米屋町相庭徳兵衛、三ケ沢村半沢重夫、鶴岡東島古沢定吉、同大工町石井与作、瓦師鶴岡鍛治町中村三治郎、壁師鶴岡大山海道田中勘四郎、石工頭鶴岡三日町志田繁蔵、同十日町新藤弥蔵
原口は明治11年(1878)2月山形県十等出仕に任ぜられ、山形の医学寮済生館の工事監督に当った。
※参考『鶴岡市史、下巻』昭和50年刊、記念碑の碑文、大沢 力調査資料       
(注)「朝暘学校」は、1883年(明治16)に2階から出火して全焼しました。『図説鶴岡のあゆみ』145ページには、鶴岡公園で火事を見物していたある士族の日記には「いらざる普請の学校ゆえ、誰も惜しむ者なし」とあって、三島鶴岡県令の改革に対する庄内士族の反感の根強さがうかがえる」とありますが、このような情勢の中で薩摩出身の原口祐之一人だけが寿碑の表にその氏名が刻まれたのは、なぜでしょうか。「井岡寺」のホームページ「井岡寺の歴史散歩」の中の「井岡寺の歴史」の「三 近代以降」の項には、『大工頭・高橋権吉外大工、石工などの工事関係者が寿碑を建立した様である。』との記述がありましたので、多分、建築技術のみならず、統率力や指導力、なによりも人柄が、庄内と敵対した薩摩藩の出身者でありながら十分尊敬に値する人物であったと思われるのです。
4 原口祐之の職歴
 木村氏資料(原口祐之の曾孫・原口祐範氏から提供された資料)を中心に原口祐之の職歴を時系列的に纏めると次のようになります。
                 鹿児島県士族 原口祐之 文政6年(1823)2月3日生
西 暦 年(元 号)年 月 日 履   歴 摘   要
1871年(明治4)10月24日 大蔵省土木寮権中属(注1) 『明治の士族・福島県における士族の動向』(高橋哲夫著、歴史春秋社、1980)山形大学付属図書館蔵書)
1872年(明治5)2月 大蔵省土木寮権中属 官員禄
1873年(明治6)1月 大蔵省土木寮権中属 官員禄
1874年(明治7)10 月 工部省製作寮十等出仕(注2) 官員禄、51歳
1875年(明治7)9月> 海軍省十等出仕 給額40円
1876年(明治9)2月20日 鶴岡県二等属(注3) >明治の士族
8月     鶴岡県九等出仕第二課 田中文書
1876年(明治9)8月21日 鶴岡・置賜・山形の3県を合併して現在の山形県となる  
1877年(明治10)2月26日 山形県四等属(注4) 54歳
1877年(明治10)10月 >山形県四等出仕(注5) 官員禄
1878年(明治11)2月〜11月 山形県十等出仕(注6)棟梁として旧済生館本館建築工事に携わる 55歳
1879年(明治12)7月16日 山形県三等属 三島神社パンフレット
1879年(明治12) 山形県十等出仕(注7)  
1880年(明治13) 山形県四等属(注8) 山形県史明治13年1月 三等属
1月28日    山形県三等属土木課第一部(当務、営繕) 山形県職員録
2〜9月    南村山郡桜田村(現山形市)常盤橋建設発起人 工事費1万6千円
8月    奈須野が原開墾事業「肇耕社」設立に参画  
9月1日    山形県九等出仕土木課第一部(注9) 9月1日改正山形県職員録
10月    山形県三等属  
1881年(明治14)7月 山形県二等属  
1882年(明治15)7月13日 三島通庸が選任福島県令として転出  
1883年(明治16)5月12日 福島県土木課長 福島県立図書館・明治の士族
1884年(明治17)1月31日 福島県八等出仕土木課 福島県立図書館
1885年(明治18)7月 福島県八等出仕土木課 7月改正福島県職員録(「レファレンス協同データーベース」)
1886年(明治19)7月16日 警視庁出向 『明治の士族』
7月     「肇耕社」が「三島農場」に改編 29町部を分与される
11月     警視庁警視属  
1889年(明治22)12月10日 警視庁会計局一等属上等級 給額75円
1896年(明治29) 1月11日 死去 享年72歳
(注1) 後の四等属に当たり、十等出仕に相当します。
(注2) 大蔵省から工部省に移動したのは、官庁の営繕事務が大蔵省から工部省に移管されたためと考えられます。「十等出仕」は待遇と解釈され、また、「出仕」は本来臨時の員外官ですが官禄等級の待遇としても使用されます。
(注3) 工事前に海軍省から出向の形で鶴岡に来たものと考えられています。
(注4) 「四等属」は資格(職位)と解釈されます。これは1877年(明治10)1月改正の「職官表]によれば、一等属から十等属まであり、「四等属」は前の権中属で「十一等出仕」待遇に該当します。
(注5) 「四等出仕」は「1877年(明治10)1月改正の「職官表]によれば、四等属」待遇を意味するものと思われます。
(注6) 「十等出仕」は、1877年(明治10)1月改正の「職官表]によれば、「三等属」待遇を意味するものと思われます。
(注7) 前年に「三等属」待遇に昇格しているので、摘要欄記載の「山形県史明治13年1月 三等属」の方が妥当と思われます。
(注8)山形県史の「明治13年1月 三等属」が妥当と思われます。
(注9) 『山形県職員録(明治13年9月1日改正)』によると「二等属」と「三等属」の間に「九等出仕」原口祐之とあります。1878年(明治10)1月改正の「職官表]によれば、「九等出仕」は「判任官」で二等属の待遇(給額50円)と解釈されます。このとき筒井明俊は一等属で、県立病院の館長でした。
 なお、明治初期の官吏の名称や等級や給料はしばしば改正されましたので、史料によって表現が若干異なります。
 以上に見る通り、原口祐之は、大蔵省を振り出しに、工部省、海軍省に在職していた期間は勿論のこと、山形県、福島県と三島通庸に従って地方官庁に勤務した期間もすべて土木課に属し営繕を担当しています。なお、1872年(明治5)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯の約95ヘクタールを焼く大火が起きました。そこで政府は西洋流の不燃都市を目指し、同年3月には東京府により、焼失地域は道路を拡張し、煉瓦家屋で再建するので、新築を控えるよう布告が出されました。建物の建設方法は、大蔵省が建設し、希望者に払い下げる方法とし、外国人技師ウォートルスの計画・設計・監督による銀座煉瓦街工事が行われましたが、この工事は大蔵省(後に工部省)が主体となって東京府と共に実施し(後に、負担の不便から、大蔵省専属で行われました。)、1876年(明治9)12月京橋以南を完成させました。原口祐之は工部省から海軍省に移動する前にこの工事に携わり、この時、東京府参事であった三島通庸と出会ったと考えられており、以後、三島に重用され、三島に従って転勤を重ねました。三島県令時代に山形県の要職に就いた人々は三島とともに赴任地を変える人々が少なくなく、例えば、『明治の士族・福島県における士族の動向』(高橋哲夫著、歴史春秋社、1980)によれば、海江田綱範、新原影行、野間政寿等がいますが、原口祐之も、三島県令が1882年(明治15)7月13日付で選任福島県令として転出した後を追い、履歴をみると、1883年(明治16)5月12日に福島県土木課長に就任したとあり、「レファレンス協同データーベース」では、1885年(明治18)7月改正の福島県職員録には、八等出仕土木課として名前をみることが出来ます。更に、同書によれば、三島が1885年(明治18)に警視総監に就任するのですが、原口祐之も1886年(明治19)7月16日に警視庁に出向し、11月2日には警視庁警視属に転出しています。
5 済生館本館の設計者について書かれた資料
@ 「レファレンス協同データーベース」によるもの
 「こういう事柄に関して知りたいが、どのような資料があるか」などのような照会事例に対する回答を国立国会図書館が全国の公共図書館、大学図書館等と協同で構築している調べ物のための支援データーベースに「レファレンス(Reference)協同データーベース」があります。これにより、済生館本館の設計者について書かれた資料について調べてみた結果を纏めると次表のようになります。
資  料  名 記     載     概     要
@山形県会史
全/山形県議会編1905(明治38)
647〜649ページ
新築の病院其構造配置未タ不備ヲ免レズ且ツ狭小ニシテ多数ノ患者ヲ容ルルニ足ザルヲ憾(ウラ)ミ十年五月一等属筒井明俊ヲ建築掛トシ院長長谷川元良ト共ニ上京セシメ汎(ヒロ)ク病院建築ノ制ヲ擇(エラ)ハシメシヲ以テ二人大学醫部病院、横濱英国海軍病院等ヲ目撃シ且ツ諸大家ノ説ヲ聞キ斟酌参照シ明俊其平面図ヲ製シ元良ト共ニ復命セリ
A山形県史 資料編2/山形県編・1962(昭和37)
725〜726ページ
県令一等属筒井明俊及長谷川元良ノ二人ヲシテ上京汎ク病院建築ノ制ヲ擇ハシム二人大学醫部病院陸軍病院在横濱英国会軍病院等ヲ目撃シ且ツ諸大家ノ説明ヲ聞キ参互考証明俊其平面図ヲ製シ元良ト共ニ復命ス
B済生館史/後藤嘉一/1966(昭和41)
47〜56ページ
・一等属筒井明俊を「病院建築掛」に任命し七月、長谷川院長と共に上京させ、東京、横浜方面の病院建築の実情を視察させた。それと相前後して三島県令も上京したらしく、県令は直接、東京大学医学部長三宅秀に病院建築の設計図を依頼したらしい。
・明治十年七月、山形県一等属筒井明俊及び長谷川元良の二人が上京して大学医学部病院、陸軍病院、横浜英国海軍病院等を視察し,かつ諸大家の説明を聞き、これを考証して筒井明俊が平面図を製し、翌十一年二月、山形県十等出仕原口祐之を棟梁の責に任じて・・・
C山形県議会八十年史1/山形県議会編/1961(昭和36)
222〜223ページ
県一等属筒井明俊と院長長谷川元良らを上京させ、先進地の医療移設を視察させた。長谷川らは東京大学医学部病院や横浜英国海軍病院等を視察し、諸大家の指導に基づいて病院建築の平面図を作製して帰県した。
D重要文化財山形市立病院済生館本館移築修理工事報告書/山形市編/1969(昭和44)
4〜5ページ
長谷川院長、筒井明俊上京し、大学医学部病院・陸軍病院・横浜海軍病院等の建築をし、ドイツ人ホフマン・ミュルレル教授、大学医学長三宅秀等の助言を受け、筒井明俊が平面図を作成した。
E山形市立病院済生館思い出の記 120年のあゆみ/山形市立病院済生館編/1993(平成5)
46〜50ページ
三島県令は、計画の実施にあたって筒井一等属を「病院建築掛」に任命する一方、明治10年7月には、自ら長谷川院長、筒井病院建築掛を率いて上京し、東京大学医学部病院・横浜英国海軍病院・陸軍病院などを視察して病院の設計や施設・設備充実の参考とし、東京大学医学部総理三宅秀にアドバイスを求めた上で、三島県令自ら建築設計図を作成したとされている。
F郷土館だより18号/山形市郷土館編 ・「重要文化財 旧済生館本館」(重要文化財山形市立病院済生館本館 移築修理報告書 結城嘉美氏の前書きから) 明治10年に院長長谷川元良、病院建築掛筒井明俊が京浜地方の病院建築を視察し筒井明俊が平面図を作製した。
・済生館建築略年表 明治10年7月長谷川元良院長・筒井明俊上京し、大学病院・陸軍病院・横浜会軍病院を視察し、筒井明俊平面図を作成
・73号:『済生館医学寮と山形県医学校 開校から廃止まで』(小形利彦著) 「山形県の初代県令となった三島通庸は翌年7月、長谷川院長、一等属筒井明俊とともに病院や医学寮のさらなる充実を期すべく東京大学医学部、横浜英国海軍病院を視察した。山形郷土館として利用されている擬洋風建築の三層楼はこの時の構想によるもので・・・」
G洋風木造建築 明治の様式と観賞/江口敏彦/1996(平成8
12〜16ページ
済生館本館の平面図はおおむね一等属の筒井明俊が作成し、塔屋部分は県十等出仕の大工棟梁原田(原口の誤り)祐之(はらぐちすけゆき)によって完成したといわれているが、そこには、指導者である三島通庸の、新しい建築に抱くイメージやデザインへの意見が大きく反映している可能性もあるであろう。
H明治初期の擬洋風建築の研究/近藤豊/1999(平成11)
141〜147,155〜156
一等属筒井明俊を建築係とし、長谷川元良院長とともに上京させ、各種病院建築を視察させた。2人は東大医学部病院・横浜英国病院などを見学し。書家の説を聞き、筒井明俊は、平面図を作り長谷川元良とともに復命した。     
I日本近代建築の歴史/村松貞次郎/1977(昭和52)
30〜31ページ
済生館病院はもともと県立病院として県庁舎前の中心地に建てられたもので、ドーナッツ型の十四角形の平面の前面に四層の塔屋をつけるという奇妙な構想の木造の建物であるが設計者は確定できない。
J山形県議会史/後藤嘉一/1951(昭和26) 翌十年五月に至り一等県属筒井明俊を建築係とし、院長長谷川元良と共に上京せしめ病院を視察させたが、両人は大学医学部病院。横浜英国海軍病院等を視察し、諸大家の説を斟酌参照し平面図を作成して帰県した。      
K山形の歴史 後編/川崎浩良/1949(昭和24)
417〜420ページ
県令は長谷川院長事務長筒井明俊等と謀り、病院の大増築を計晝すると共に長谷川、筒井の両人を京濱地方に出張せしめ、東京大學病院並びに横濱英国海軍病院等の視察を行わせた。
Lまぼろしの医学校 山形済生館医学寮のあゆみ/小形利吉/1981(昭和5E)
78〜80ページ
明治十年七月二十五日三島通庸は、公立病院長長谷川元良並びに一等属筒井明俊の二人を、病院建築の調査視察のため東京に派遣し、東京大学医学部病院、横浜の英国海軍病院等を視察させた。またこれとは別途に上京した三島通庸が東京大学医学部に三宅秀教授を訪ね、大平骰の案内を得て病院の構造や設備状況などを詳細に視察、調査した。これらの成果を持寄って何回か打合わせを行った後、筒井明俊が主になって平面図を作成して県令に復命した・・・
 以上に見る通り、@、A、D、F、H,Jは筒井明俊が平面図を作成したとしています。ただ、山形県の公文書である@・A以外で平面図作成者を筒井明俊としているものは、@・Aに依ったものと推察されます。Bは三島県令が直接三宅秀に設計を依頼したらしいと推論しています。CとJは長谷川元良と筒井明俊の両名が平面図を作成したというニュアンスであり、Eは三宅秀のアドバイスを受けたうえで三島県令自身が平面図を作成したとしています。Gはおおむね筒井明俊が平面図を作成したが、塔屋部分は原口裕之が作成したとしています。また、イメージやデザインは三島通庸の意見が大きく反映していると推論しています。Fの一部とKは、設計者には触れておらず、Iは作成者を確定できないとしています。Lは、筒井明俊が主たる平面図作成者としています。
 A 山形県史資料編2明治初期下『三島文書』によるもの
 これは「木村氏資料」によるものですが、ここでは、筒井明俊と長谷川元良の二人が平面図を作成し、原口裕之がその平面図に基づき工事を起こしたとあります。
・同10年(1877)5月一等属筒井明俊又病院建築掛ヲ命ゼラル
・同年7月県令一等属筒井明俊及院長長谷川元良ノ二人ヲシテ上京汎(ヒロ)ク病院建築ノ制ヲ撰ハシム二人大学医学部病院陸軍病院在横浜英国海軍病院等ヲ目撃シ且諸大家ノ説明ヲ聞キ参互考証明後其平面図ヲ製シ元良ト共ニ県令ニ復命ス
・同11年(1878)2月十等出仕原口裕之棟梁ノ責ニ任シ其平面図ニ因リ土木ヲ起工ス
・同年9月土木功ヲ竣(オ)フ
 B 山形県のホームページと山形市郷土館(旧済生館本館)のパンフレットの記載によるもの
 山形県のホームページの「旧済生館本館」では、設計者は筒井明俊、施工者は原口祐之と明記しており、これの出典を「産業政策課」に照会したところ、「県民相談室」から『施設所有者である山形市が作成した「山形市郷土館(旧済生館本館)のパンフレットを参考にした』旨の回答がありました。
 ただ、県の同ホームページの≪コラム よみがえった三層楼」には、『1967年(昭和42)に始まった移築復元工事は、創建当時の詳しい設計図が無く、現場主任の兼子元吉氏が解体作業を行いながら設計図を作り上げた。兼子氏が調査を始めたころは現在のような姿はなく、3階部分は失われて14角形の回廊も3室を残すのみで、原形が大きく損なわれていた状態であった。・・・』と記述してあります。
 一方、現在の山形形市郷土館のパンフレットにはそのような記載は一切ありませんが、過去のものには、設計者が筒井明俊、原口祐之が棟梁と書かれていました。また、現山形市郷土館入口にある案内板には『・・・初代県令三島通庸によって県立病院として建てられ、人々から「三層楼」と呼ばれ親しまれてきました。鹿児島出身の原口祐之が大工棟梁となり、山形の宮大工たちがたった7ヶ月で完成させました。・・・』とあり、ここには設計者の名前は出てきません。このように設計者筒井明俊の記載をパンフレットから削除したのは、彼を設計者として断定するに足る根拠が希薄であると考えたものと思われます。
 C 『やまがたの歴史』(昭和55年11月15日、山形市史編さん委員会・山形市史編集委員会編さん、山形市発行、大場印刷株式会社印刷)の記述によるもの
265ページ
・・・三島は・・・県立病院の名にふさわしいものとするため、大改造を計画し、院長長谷川元良・県一等属筒井明俊を東京・横浜に派遣して、大病院の視察を行わせた。また、設計図作製方を、東京大学医学長三宅秀に依頼したが、明俊が平面図を作り、同11年(1878)9月、洋風ながらも回廊等に伝統的な社寺建築技法を採りいれ、三層の華麗な建物を完成した。・・・
 6 元済生館本館の「設計者」に関する考察
 前述の通り、「済生館本館の設計者について書かれた資料」に当たった結果、筒井明俊を設計者とするものあるいは筒井明俊と長谷川元良の二人とするものが半数近くを占めますが、東京大学医学部長三宅秀とするもの、三島通庸自身とするもの、設計者を特定しないものあるいは確定しないものがあって明確に「設計者は誰々である」と言いきれないようです。
 三島通庸が山形県令になる前の鶴岡県令時代の1876年(明治9)4月に起工し、同年8月に竣工した「朝暘学校」に関しても、設計者については明確にされているわけではありません。一説では、1881年(明治14)竣工の西田川郡役所をはじめ庄内の近代擬洋風建築の数々を手掛けた高橋兼吉が設計者とされていますが、三島の配下の薩摩出身の原口祐之、貴島宰輔、柴山陶蔵などが「掛り」となり、また、三島の出身地である薩摩から多くの大工、石工が来鶴したという話はあるものの、設計者については不確定です(『創設基の鶴岡朝暘学校−三島家旧蔵の絵図をめぐってー』(2020年2月2日発行の『山形県立博物館研究報告第28号』1〜11ページで青木章二さんが論述している部分を参照しました。)。
 そこで、私は結論として次のように考えてみました。すなわち、1877年(明治10)に三島県令は、山形県公立病院の本館(元済生館本館、現山形市郷土館)の建築計画するにあたって、筒井一等属を同年5月に「病院建築掛」に任命する一方、同年7月25日には、長谷川病院長、筒井病院建築掛を上京させました。つまり、三島県令は、山形に近代的病院・医学校を整備するには、第一に医療行政に長けた筒井病院建築掛と医療現場に精通している長谷川院長を中央に派遣し、当時の日本における最高水準の病院事情や医学教育の最新情報を収集させることにあったと思います。そこで彼らは東京大学医学部病院・横浜英国海軍病院・陸軍病院などを視察して、これから建築する病院の設計や施設・設備充実の参考資料を集めましたが、『山形県史』にいう「明俊其平面図ヲ製シ元良ト共ニ復命セリ」の「平面図」というのは、調査結果を復命するための視察した病院の「スケッチ風平面図」のようなものであったような気がします。一方、『済生館史』や『山形県済生館の洋学史的研究』では、三島県令自身も上京し、東京大学医学部長三宅秀(みやけひずる)を訪ね、長谷川元良と同郷(佐渡・相川)の医師・大平骰(大先輩大平髀浮ウんの父君)の案内で医学部や病院の施設・設備を視察したとあります。このことは、三島県令自身も自身の目で中央の情勢を確認しておきたかったのではないかと思います。
 以上の結果、三島通庸県令、筒井病院建築掛、長谷川病院長の帰県後、上京の調査結果を踏まえて検討に入り、三島県令の強烈なリーダーシップのもと、この時点で病院担当課長となっていた筒井課長、長谷川病院長、それに後に工事を担当することになる土木課で営繕担当の技術者・原口祐之の四人が幾度となく協議を重ねて成案を得たのではないかと考えるのです。
 旧済生館本館の特異な全体構成は、ドーナッツ型の横浜のイギリス海軍病院に前年完成した山形県庁(1877年(明治10))の玄関部を組み込んで生まれたといわれており、三島の強い意思が示されたものと思います。また、済生館の外装は「下見板張り」ですが、これについて三島は、鶴岡県令時代に「朝暘学校」の建築で経験し、さらに山形での「山形県庁舎」、師範学校(1878年(明治11))の建設でも用いたように、「下見板張り」は三島通庸のお気に入りの外装であったと考えられます(『日本の近代建築(上)〜幕末・明治編〜』(藤森照信(注1)著、岩波新書、2011年10月25日第17刷発行))。また、原口祐之も履歴で見る通り1871年(明治4)から大蔵省に、1874年(明治7)に工部省に勤務しており、同年に竣工した下見板系擬洋風建築第一号の工部省庁舎(注2)の建設に関り、ここで下見板張りの技術を取得したものと思われます。
 このような事情を勘案するに旧済生館本館工事の施工に当たっては、土木課第一部の営繕係主任であった原口祐之が三島県令の指示に基づき建築図面を作成するとともに現場での采配を振るい、それに地元山形の宮大工佐藤周吉・安蔵親子が中心になって具体的に工事を進めたのではないかと思われます。
 あるいは、いろいろとアドバイスを下さった木村彌一郎さんは「北海道の開拓使では、明治の初年に多くの建物が建築されているが、開拓使が招いた外国人技術者の中には建築の専門家はおらず、外国人が詳細な設計をした例はなく、彼らが作成したのは原案概要図とスケッチ提示及び説明書程度で、これらに基づいて日本人棟梁や職人が実施図を纏め、工事を行っていた」といいます(『講座日本技術の社会史7建築(221,225,227ページ、1983年12月10日、日本評論社〜西洋建築の導入と職人、初田 享)。一方、前述の山形県のホームページ「旧済生館本館」の≪コラム よみがえった三層楼」に『1967年(昭和42)に始まった移築復元工事は、創建当時の詳しい設計図が無く、・・・』とあるように旧済生館本館新築工事においても、このことはあくまでも私の推論にすぎませんが、今日我々が建築の詳細設計図と呼んでいるものは存在せず、三島県令の構想に沿って原口祐之と筒井明俊がそれを纏め上げ、これに基づき営繕の担当係である原口が概要図と仕様書的なものを書き上げ、これにより山形の棟梁佐藤周吉、周吉の二男安蔵達が実施図面を頭に描きながら工事を進めたのではないでしょうか。
(注1)東京大学名誉教授で東北芸術工科大学客員教授でもある建築史家
(注2)『日本の近代建築(上)〜幕末・明治編〜』119ページ
 最後に『日本の近代建築(上)〜幕末・明治編〜』の126から128ページにある記述を紹介して筆を置きます。
5 文明開化の花―擬洋風・そのニ
 1 下見板系擬洋風 山形県の西洋館
 ・・・これほどの成果を残す下見板系擬洋風だが、肝心の設計者がいまだ明らかにならない。先行する漆喰系擬洋風も北海道のアメリカ直伝の下見板コロニアル(注1)も代表作についてはたいてい設計者が記録に残って伝えられているのに、山形の下見板系擬洋風は第一作の朝暘学校はじめ県庁、済生館師範学校何れの記念的大作も、誰があのような奇抜なデザインを考えたのかわからない。西田川郡役所や鶴岡警察署等の県営ではない建物については設計と施工を手がけた棟梁の名(注2)が残されているのに、三島が力を傾けた工事に限ってデザイナーの名は現れない。三島の下で建築に関わる仕事を掌握していた人物は分かっていて、原口祐之というおそらく薩摩出身の技術者で、山形時代のみならずその前も後も影のように従って土木と建築の事業の実務を担当している。建築の発注者も実務を握っていた技術者もその下で働いた職人たちの名も分かっているのに、肝心のデザインを誰が決めたかが記録されなかったのは、当時の関係者にとってあまりに自明のことでわざわざ記すまでもなかったからではなかろうか。おそらく三島が決めていたのだ。
 彼の建築好きは明治の指導者の中では群を抜いていて、山形での第一作の朝暘学校の図面は巻物に仕立てられて三島家に長く伝えられているし(注3)、後の警視総監時代には殉職警官を祀る「弥生社」(注4)の設計を自らが手がけたことが分かっている。高橋由一を呼んで「山形市街図」を描かせたのもそうした傾向の現われだった。おそらく三島が何らかの方法で提示する建築のイメージを原口が図面に落とし、それをまたチェックして、といった作業を繰り返しながら、あの独特の形が固まっていったと推測される。・・・
(注1) 幕末・明治初期に白い建物でベランダを廻らせた洋館の形式のことです。
(注2) 西田川郡役所のの設計・施工は高橋兼吉と石井竹次郎、鶴岡警察署の設計・施工は高橋兼吉です。
(注3) 「朝暘学校の三幅の絵図」(平面図、正面図、側面図)は、2組制作され1組は当時の鶴岡県に保管され、もう1組は三島県令のもとに残されたものと考えられており、三島家所蔵のものは、1977年(昭和55)10月11日付で山形県立博物館に寄贈、受領されています。
(注4) 現在は「弥生慰霊堂」とよばれ、警視庁及び消防庁の殉職者を祀っています。
2012年10月12日