資 料 名 |
記 載 概 要 |
@山形県会史
全/山形県議会編1905(明治38)
647〜649ページ |
新築の病院其構造配置未タ不備ヲ免レズ且ツ狭小ニシテ多数ノ患者ヲ容ルルニ足ザルヲ憾(ウラ)ミ十年五月一等属筒井明俊ヲ建築掛トシ院長長谷川元良ト共ニ上京セシメ汎(ヒロ)ク病院建築ノ制ヲ擇(エラ)ハシメシヲ以テ二人大学醫部病院、横濱英国海軍病院等ヲ目撃シ且ツ諸大家ノ説ヲ聞キ斟酌参照シ明俊其平面図ヲ製シ元良ト共ニ復命セリ |
A山形県史 資料編2/山形県編・1962(昭和37) 725〜726ページ
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県令一等属筒井明俊及長谷川元良ノ二人ヲシテ上京汎ク病院建築ノ制ヲ擇ハシム二人大学醫部病院陸軍病院在横濱英国会軍病院等ヲ目撃シ且ツ諸大家ノ説明ヲ聞キ参互考証明俊其平面図ヲ製シ元良ト共ニ復命ス |
B済生館史/後藤嘉一/1966(昭和41) 47〜56ページ |
・一等属筒井明俊を「病院建築掛」に任命し七月、長谷川院長と共に上京させ、東京、横浜方面の病院建築の実情を視察させた。それと相前後して三島県令も上京したらしく、県令は直接、東京大学医学部長三宅秀に病院建築の設計図を依頼したらしい。
・明治十年七月、山形県一等属筒井明俊及び長谷川元良の二人が上京して大学医学部病院、陸軍病院、横浜英国海軍病院等を視察し,かつ諸大家の説明を聞き、これを考証して筒井明俊が平面図を製し、翌十一年二月、山形県十等出仕原口祐之を棟梁の責に任じて・・・ |
C山形県議会八十年史1/山形県議会編/1961(昭和36) 222〜223ページ |
県一等属筒井明俊と院長長谷川元良らを上京させ、先進地の医療移設を視察させた。長谷川らは東京大学医学部病院や横浜英国海軍病院等を視察し、諸大家の指導に基づいて病院建築の平面図を作製して帰県した。 |
D重要文化財山形市立病院済生館本館移築修理工事報告書/山形市編/1969(昭和44) 4〜5ページ
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長谷川院長、筒井明俊上京し、大学医学部病院・陸軍病院・横浜海軍病院等の建築をし、ドイツ人ホフマン・ミュルレル教授、大学医学長三宅秀等の助言を受け、筒井明俊が平面図を作成した。 |
E山形市立病院済生館思い出の記 120年のあゆみ/山形市立病院済生館編/1993(平成5)
46〜50ページ
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三島県令は、計画の実施にあたって筒井一等属を「病院建築掛」に任命する一方、明治10年7月には、自ら長谷川院長、筒井病院建築掛を率いて上京し、東京大学医学部病院・横浜英国海軍病院・陸軍病院などを視察して病院の設計や施設・設備充実の参考とし、東京大学医学部総理三宅秀にアドバイスを求めた上で、三島県令自ら建築設計図を作成したとされている。 |
F郷土館だより18号/山形市郷土館編 |
・「重要文化財 旧済生館本館」(重要文化財山形市立病院済生館本館 移築修理報告書 結城嘉美氏の前書きから) 明治10年に院長長谷川元良、病院建築掛筒井明俊が京浜地方の病院建築を視察し筒井明俊が平面図を作製した。
・済生館建築略年表 明治10年7月長谷川元良院長・筒井明俊上京し、大学病院・陸軍病院・横浜会軍病院を視察し、筒井明俊平面図を作成
・73号:『済生館医学寮と山形県医学校 開校から廃止まで』(小形利彦著) 「山形県の初代県令となった三島通庸は翌年7月、長谷川院長、一等属筒井明俊とともに病院や医学寮のさらなる充実を期すべく東京大学医学部、横浜英国海軍病院を視察した。山形郷土館として利用されている擬洋風建築の三層楼はこの時の構想によるもので・・・」
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G洋風木造建築 明治の様式と観賞/江口敏彦/1996(平成8 12〜16ページ
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済生館本館の平面図はおおむね一等属の筒井明俊が作成し、塔屋部分は県十等出仕の大工棟梁原田(原口の誤り)祐之(はらぐちすけゆき)によって完成したといわれているが、そこには、指導者である三島通庸の、新しい建築に抱くイメージやデザインへの意見が大きく反映している可能性もあるであろう。 |
H明治初期の擬洋風建築の研究/近藤豊/1999(平成11) 141〜147,155〜156
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一等属筒井明俊を建築係とし、長谷川元良院長とともに上京させ、各種病院建築を視察させた。2人は東大医学部病院・横浜英国病院などを見学し。書家の説を聞き、筒井明俊は、平面図を作り長谷川元良とともに復命した。 |
I日本近代建築の歴史/村松貞次郎/1977(昭和52) 30〜31ページ
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済生館病院はもともと県立病院として県庁舎前の中心地に建てられたもので、ドーナッツ型の十四角形の平面の前面に四層の塔屋をつけるという奇妙な構想の木造の建物であるが設計者は確定できない。 |
J山形県議会史/後藤嘉一/1951(昭和26) |
翌十年五月に至り一等県属筒井明俊を建築係とし、院長長谷川元良と共に上京せしめ病院を視察させたが、両人は大学医学部病院。横浜英国海軍病院等を視察し、諸大家の説を斟酌参照し平面図を作成して帰県した。
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K山形の歴史 後編/川崎浩良/1949(昭和24) 417〜420ページ
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県令は長谷川院長事務長筒井明俊等と謀り、病院の大増築を計晝すると共に長谷川、筒井の両人を京濱地方に出張せしめ、東京大學病院並びに横濱英国海軍病院等の視察を行わせた。 |
Lまぼろしの医学校 山形済生館医学寮のあゆみ/小形利吉/1981(昭和5E) 78〜80ページ
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明治十年七月二十五日三島通庸は、公立病院長長谷川元良並びに一等属筒井明俊の二人を、病院建築の調査視察のため東京に派遣し、東京大学医学部病院、横浜の英国海軍病院等を視察させた。またこれとは別途に上京した三島通庸が東京大学医学部に三宅秀教授を訪ね、大平骰の案内を得て病院の構造や設備状況などを詳細に視察、調査した。これらの成果を持寄って何回か打合わせを行った後、筒井明俊が主になって平面図を作成して県令に復命した・・・ |