千歳山公園(山形市)にある物部守屋大連之顕彰碑
1 はじめに
2012年(平成24)9月19日付の山形新聞に次のような記事がありましたが、その見出しと記事の頭の部分を再掲してみます。
山形・千歳山にある郷族物部守屋顕彰碑
なぜ山形に?本格調査
拓本発見機会に山形大准教授近くツタ刈り清掃、公開講座も
天保8(1837)〜明治26(1893)・10.・20 神職
6世紀後半の豪族物部守屋を顕彰する石碑が山形市の千歳山にある。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教の排斥運動)と関係があるとみられ、山形大の三上喜孝准教授(日本古代史)らは同大図書館で碑の拓本を見つけたのを機会に、草に覆われ半ば忘れ去られていた石碑の詳細な調査に取り組んでいる。10月6,13の両日には歴史的背景を解説する公開講座が開かれる。
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山形市民に親しまれている自然休養林(注1)・「千歳山」は、千歳山公園口、千歳稲荷口、万松寺口の三つの登山口を持ち、誰でもが気楽に登れ、頂上からは市内をはじめ月山、村山葉山、蔵王の山並みの眺望を楽しむことが出来ます。私もこれまで幾度となく登山を経験しましたが、自然休養林に隣接する山形市の近隣公園(注2)・「千歳山公園」からの登山道入り口にこの石碑があることをこの記事を読むまでまったく気が付きませんでした。
新聞記事によれば、山形大学人文学部の三上喜孝准教授が調査された範囲では、この様な石碑は国内で他に存在しないとのことであり、「なぜ山形にこのような石碑が建てられたのか?」ということで興味を抱き、山形大学小白川図書館の公開講座を聴講しました。
そこで、この平成24年度山形大学小白川図書館公開講座・『石に刻まれた日本の歴史』(第1回:2012年10月6日、山形大学人文学部三上喜孝准教授)の概要を報告してみたいと思います。
(注1)国有林野のうち、ハイキング、キャンプ、スキー、森林浴など国民の保健休養に広く利用されるよう区域が指定され、登山道や指導標識等の利用施設が整備された森林のことです。
(注2)半径500メートルほどの範囲に住むすべての年齢層の人々が利用することを目的に設置された面積2ヘクタールほどの公園のことをいいます。
2 山形大学の調査のきっかけと石碑の全容出現
2011年(平成23)の7月、山形大学小白川図書館でこの石碑の拓本が見つかったのを機に、三上准教授らが調査を開始したのですが、本年5月上旬現在現地で見た石碑は灌木や草にすっぽりと埋もれており、その存在はよく分からなかったそうです。そこで公園管理者である山形市公園緑地課に依頼し、とりあえず草刈りを実施したので石碑全体の姿が見えるようになりましたが、それでもツタが石碑一面に絡みつき碑文全体を読むことが不可能であったため、9月29日に同大学の教職員、学生らがツタの除去と清掃を実施し、ついに碑文全文、建立年月日、建立発起人名、彫刻師の名が読みとれる状態になりました。私も10月9日に現地に行ってきましたが、石碑は巨岩の自然石の上に建っているので相当大きなもので、いままで気が付かなかったことが不思議なくらいでした。
3 物部守屋(物部弓削守屋)という人
物部守屋については、『日本書紀』の記述を参考に要約して紹介すると次のようになります。
第30代敏達(びたつ)・第31代用明朝における大連(注1)で物部尾輿(おこし)の子です。物部弓削守屋とも称します。欽明天皇の治世に、国内に仏像や経論がもたらされて仏教が伝来すると、その次の敏達朝には、その受容を巡って臣下同士、すなわち古くから石上神宮(いそのかみじんぐう)を氏神としてきた氏族で排仏派の物部尾輿と,宣化(せんか)朝以降に台頭してきた仏教加護者の蘇我稲目の争いが勃発します。両者の対立は、彼らの子供の代になって泥沼化します。稲目の子・馬子は仏塔を建立するのですが、守屋は仏塔や仏殿を焼き、流行していた疱瘡の原因を蘇我氏が仏教を崇拝したためとして、仏像を廃棄してしまいます。更に、敏達天皇の葬儀の際にも両者は互いにあざけり合いその溝はますます深くなっていくばかりでした。
次の用明天皇は仏教に理解を示したため、形勢は馬子に傾きましたので、守屋は次期天皇の代に期待することにして穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁護します。この穴穂部皇子は、敏達天皇が逝去したときにその皇后である炊屋姫(かしきやひめ)を犯そうとした時があり、これを阻止した敏達天皇の寵臣であった三輪逆(みわのさかう)は穴穂部皇子に逆恨みされて守屋によって殺されます。このことを馬子は強く批判し、両者は遂に一触即発状態となりました。
そんな折に、病弱な天皇が仏教の加護に頼ろうとしたため、守屋と臣勝海(とみのかつみ)がこれに反対します。守屋討伐の機会を伺っていた蘇我氏は天皇の詔を得、これを大儀名分に戦闘のための準備を進めますが、一方、守屋も勝海も戦闘準備に入ります。ただし、途中勝海は守屋を裏切り寝返り、蘇我氏に殺されます。
守屋は用明天皇が亡くなったことから強引に穴穂部皇子の即位を進めます。ところが馬子は先に穴穂部皇子の同母弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を第32代崇峻天皇として即位させるとともに穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)(注2)を討ち、守屋一族にも総攻撃をかけました。しかし、物部氏は長年天皇家を軍事で支えた一族であるため、頑強な抵抗を見せ、皇子らの軍は苦戦を強いられます。しかし、味方の矢が守屋に命中し、大黒柱を失った物部氏は戦いに敗れたのでした。蘇我、物部両氏の抗争は熾烈を極め、数百にも及ぶ夥しい数の腐乱した死体の話や主人を失った犬が遺体を守った逸話などが、生々しい合戦の描写と共に『日本書記』には記されています。ともかく物部氏を没落させたことで、蘇我氏の権力は増大し、仏教信仰も公認になりました。
しかし、天皇は次第に馬子を疎ましく思うようになり、ある時などは、献上されたイノシシの首を切り落とし、このように気に食わないものを切ってしまいたいと口にするようになりました。これを聞いた馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使ってあっさりと崇峻天皇を暗殺してしまうのでした。
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(注1)大和朝廷で、大化の改新以前に大臣(おおおみ)と並ぶ最高官で、連の姓(かばね)を持つ氏族中の最有力者が就任しました。
(注2)第28代宣化天皇の皇子で、物部氏と親しく、妃が物部氏の娘でした。
4 石碑表面に刻まれている内容
石碑の表面に刻まれている内容は次の通りです。
【.篆額(石碑の上部などに篆書で書かれた題字です。)】 物部守屋大連之碑
【碑文】(現代語訳で記述します。)物部弓削守屋公は、尾輿の子である。父に継いで大連となった。敏達天皇の時代、仏法が世に行われるようになると、蘇我の馬子大臣(注1)を筆頭にこれを崇信した。守屋公はこれをよろこばず、つとめて規諫(きかんと読み「戒め」の意味です。)した。時に人臣は、病気で死ぬものが多く、守屋公はこれを仏法唱えたことによると考え、仏教を禁絶しようとして、塔宇を破壊し、仏像を焼き、残りを難波の堀江に棄てた。また、三尼を海石榴市(つばいち)において鞭打ちの刑にした。
蘇我馬子はこのときか守屋公に怨みをもつようになった。その後もなお仏に帰依し、法師を宮中に入れた。群臣はみな守屋公を攻めようとした。守屋公は阿都の別業(注2)に退去し、兵を集めて自らを守ろうとした。馬子ますますその仲間を集め、遂に泊瀬部皇子・竹田皇子・豊聡耳皇子(注3)・難波皇子・春日皇子の諸皇子及び臣たちをひきいて、攻撃をするために渋河の家に至った。守屋公は稲城(注4)を築いて防戦し、さらに樹に登って雨のごとくに矢を射た。諸皇子の軍は恐れおののいて退いてしまったが、豊聡耳皇子は、馬子と共に守屋公を攻撃して、守屋公を矢で射て殺してしまった。 今、名分の学が開きゆくこの大御代(おおみよ:天皇の御治世)に、守屋公の忠憤義慨が世に明らかになってゆくにつれ、山形県の有志の者が、同村の千歳山に祭場を設け、一千首余りの国歌を備え、守屋公の忠勇遺烈を顕彰するものである。すなわち、ここに大石碑を建て、守屋公の正義を後世に永く伝えて、邪道に迷い、大義をあやまることがないように、世に示すのである。
明治廿六年十一月
陸軍大将議定官大勲位有栖川熾人(ありすがわ たるひと)親王(注5)篆額
枢密院副議長従二位勳一等伯爵東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)(注6)撰并書 |
以上の通りですが、その内容は『日本書紀』の記述内容の通りのことが書かれていますが、最後の5行がこの碑建立の理由部分となります。
(注1)大和朝廷で、大化の改新以前に大連と並んで朝政を執った最高官で、臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族中の最有力者が就任しました。
(注2)なりどころ:天皇や貴族の別宅・別荘のことです。
(注3)とよとみみのみこ・とよさとみみのみこ:聖徳太子のことです。
(注4)いなき:古代、家の周囲に稲を積み上げ、敵の矢を防ぐ備えとしたものです。
(注5)1835年(天保6)〜1895年(明治28)。和宮親子内親王と婚約していたことで知られる江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人です。長州藩と近かったので、幕末期に職務を解任され謹慎生活を送った時期もありましたが、王政復古により新政府が樹立され、総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、その最高職である総裁に就任しました。明治天皇から絶大な信任を受け、1882年(明治15)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に天皇の名代として出席し、帰路はヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国を歴訪しています。『熾人親王日記』には、全国から揮毫の依頼がひっきりなしにあり、親王もこれに応えていたことが詳細に記述されています。
(注6)1834年(天保4)〜1912年(明治23)。江戸時代末期の公家で、明治に入っては明治政府最初の外交問題対応者となりました。また、第二代開拓長官に任命され、実質的に開拓使の事業を推進しました。王政復古以前は長州に逃れたこともありましたが、1871年(明治4)には岩倉使節団に随行していますので熾人親王とは親しい関係にありました。
5 石碑裏面に刻まれている内容
裏面には次の通り刻まれています。
【発起人】
東村山郡楯山村風間 佐藤恭順 同郡出羽村漆山 那須五八
同 郡高擶村高擶 荻野清太郎 同郡高擶村擶村 岡崎弥平治
同 郡長崎町長崎 石澤次郎三郎 西村山郡谷地村沢畑 堀米新九郎
西村山郡堀田村成沢 板垣与四郎 山形市旅籠町 遠藤司
東村山郡高擶村高擶 三宅伝九郎 南村山郡堀田村成沢 庄司権蔵
東村山郡大郷村成安 近藤庄三郎 山形市十日町 原田元民
北村山郡楯岡村湯沢 菅原遯
【建立根月日】
明治二十九年十二月二十三日建立
【彫刻師】
菅野銕造 上桜田彫刻師 船越長五郎 同船越吉五郎
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以上の通りですが、「山形民俗学会」の市村幸夫さんの研究によると、佐藤恭順と原田元民は医師で、元民は漢学者でもあったそうです。いずれも文人の細谷風翁(注)と親交がありました。なお、佐藤恭順は発起人総代で、当該石碑の石摺りを宮内省(天皇)に献上した人です。山形大学図書館に収蔵されている軸装された当該石碑の拓本の裏側には、天皇にこれを差し上げた旨の宮内省の文書の写が添付されています。三宅伝九郎は村会議員、三宅伝九郎と岡崎弥平治は共に村会議員を経て村長を勤めています。遠藤司は平田篤胤が残した私塾・江戸(東京)の「気吹舎」(いぶきのや:平田篤胤の号でした。)に加入していました。「気吹舎」は篤胤の生前没後の門人数が三千人ともいわれ、全国各地の武士(士族)、学者、神職、豪商、豪農といった指導的な有力者が多かったといいます。那須五八は大庄屋那須弥八の子と見て間違いないとのことです。何れも幕末維新期以来の思想・学問的立場で繋がりを持ち、この人間関係を背景にして、彼らが発起人として名を連ねたと考えられています。
彫刻師の船越吉五郎については、東京の名石工宮亀年(みやかめとし)をして名工と言わしめ、亀年より「光則」の名を授った山形の名彫刻工でした。
(注)医師であり文人です。神仏分離の際に廃寺となった山形市の真言宗宝幢寺(現紅葉公園)の寺侍(格式の高い寺院に仕えた武士のことです。)・宮城家の生まれですが、山形市十日町の医師細谷玄林の養子となって医師になります(医師名は玄達)。また、作詩にも長じて多くの門下生を持つようになりました。幕末の頃、諸国に勤皇論が起こり、文武の思想が広がった際、影響を受け、屋敷の裏に撃剣道場を開いて文武両道を教えましたが、明治維新後は道場を改めて隠居所としました。紅葉公園に風翁の記念碑があります。
6 宮内省に献上された石碑の拓本
前述の発起人総代が宮内省に献上した拓本を御前に差し上げたことを宮内省内事課長から山形県知事に通知した文書の写、それとこのことを献上者に対して、東村山郡役所から通達するようにとの山形県知事から東村山郡長あての公文書の写しの二つが当該顕彰碑拓本の裏側に添付されています。
◆宮内省御通達写
宮内省内事課丙第898号
御管加下東村山郡楯山村有志総代佐藤恭順他3名ヨリ大連物部守屋公頌徳石碑献納出願ニ付本月8日第2352号附ヲ以テク内大臣ヘ御上申之処聴許相成且現品到達ニ付御前ニ差上候間其旨本人共ヘ御通達有之此段申入候也
明治29年12月26日
宮内省内事課長 股野 琢
山形県知事 木下周一 殿
◆山形県知事御達書写
達1第3号
東村山郡役所
其郡楯山村有志者総代佐藤恭順他3名ヨリ昨29年11月27日附ヲ以テ大連物部守屋公頌徳碑石摺献納出願ニ付ク内大臣ヘ上申候所聴許相成且現品ハ御前ヘ差上候旨其筋ヨリ通牒有之候條旨本人共ニ通達ス可シ
明治30年1月7日
山形県知事 木下周一 印
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7 石碑建立までの経緯
以上、今まで述べてきたことを踏まえ石碑建立までの流れは次のようになりますが、拓本は石碑建立前に予めとられていたことが分かります。事実、山形大小白川図書館収蔵の拓本も字が明瞭で、汚れが存在しません。なお、この拓本が山形大学小白川図書館に収蔵された経緯については、拓本の裏側に寄贈者と思われる人の名刺が添付されているそうですが経緯の究明は今後の課題とされています。
@1893年(明治26)11月
碑文作成と思われる。
A1896年(明治29)11月27日
東村山郡楯山村有志が石碑拓本の献納を宮内省に願い出る。
B1896年(明治29)12月8日
拓本現品が宮内省に届き、宮内大臣の許可を得て御前に供される。
C1896年(明治29)12月23日
石碑裏面に見る通り建立された日付
D1896年(明治29)12月26日
宮内省よりの山形県知事への通知。
E1897年(明治30)1月7日
山形県知事から東村山郡役所への通知。
8 山形大学付属小白川図書館収蔵の拓本と同様の拓本の存在
山形大学付属小白川図書館収蔵の拓本の法量は、縦:254.5センチメートル、横:187センチメートルですが、これと同様の拓本が、京都大学付属図書館にも収蔵されています。この拓本は「尊攘堂」という品川弥次郎(注1)が師吉田松陰(注2)の遺志を継いで1887年(明治20)に京都に建てた施設にあったものですが、品川の死去後、1901年(明治34)に京都帝国大学へ寄贈・移管されたものです。山形大学と同様のものが「尊攘堂」に存在した理由ですが、有栖川熾人親王も東久世通禧も品川弥次郎と親交が深く、その関係から寄贈されたものと考えられており、また、東村山郡楯山村有志が石碑拓本の献納を宮内省に願い出た際、拓本は複数枚摺られたものと考えられています。
(注1)1843(天保14)〜1900年(明治33)。長州藩士で尊王攘夷運動に奔走し、維新後は、政治家となりました。ドイツ、イギリスへの留学経験があり、1891年(明治24)の第1次松形内閣の内務大臣に就任します。民間にあっては現独協学園や京華学園を設立し、また、信用金庫や産業組合の設立に貢献しました。
(注2)1830年(文政13)〜1859年(安政6)。長州藩士で、思想家、教育者、地域研究家とされ、一般的に明治維新の精神的な指導者・理論者として知られています。1858年(安政5の幕府の「日米修好通商条約」締結を非難し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てて捕えられ、1859年(安政6)の「安政の大獄」(安政5〜6年にかけての幕府の尊攘運動への弾圧)により斬首刑となりました。
9 山形に物部守屋之顕彰碑が建立された理由
千歳山麓には江戸時代、山形両所宮護摩堂(天台宗)の支配下で別当寺鷲峰庵が管理する大仏堂が存在しました。しかし、天保3年(1832)に火災により大仏堂、別当寺、鷲峰庵もすべて灰燼に帰してしまい、現在は大仏堂跡地に交通安全地蔵尊が1972年(昭和47)に建立されています。なお、大仏の土台石は平清水の平泉寺に保存されているということです。
物部守屋之顕彰碑は、このかつての「大仏堂」(現在の地蔵尊設置位置)の目と鼻の先の地にあるのですが、このような場所に、6世紀に大和朝廷で活躍した豪族の顕彰碑が、近代国家の歩みを始めた明治20年代になぜ建立されたのか、私が公開講座を聴講した最大の理由が実はここにあったのですが、しかし、今回の講義では肝心のこの点の解説が十分でなく、三上准教授も解明は今後の課題であるということでした。ただ、三上准教授は山形に物部守屋之顕彰碑が建立された理由として次のような事柄が相互に関連して建立者達を発奮させたのではないかと考えておられ、その項目を提示されましたので、これに私なりの説明を加えてみたいと思います。
@大仏堂のあった地に建立されたのは、明治初年における神仏分離、廃仏毀釈との関係や影響があったのではないか。
周知の通り1869年(明治2)仏寺における神社の併祀を、または神社社域の仏教施設は、すべて分離すべきことが命じられ、仏像、仏堂、経典、仏具等の破壊は想像以上のものがあり、山形市地蔵町の古刹真言宗宝幢寺(現紅葉公園)は廃寺となっています。また、1871年(明治4)の廃藩置県と共に、従来の社寺所領地は、その境内を除いて全部を政府に上地すべき事が命じられ、神社は、改めて国家が祭祀する官・国幣社、地方官が所管する県・郷・存社及び無格社に分けた社格が定められました。寺院は一切国家の管掌より除外し、専ら信者の浄財によって経営を維持しなければならず、檀徒の少ない真言系寺院は大打撃を受け、六日町の真言宗行蔵院も遂に廃寺になっています。その他、真言・天台系で禅宗・その他に転宗して檀家を獲得するもの等があり、また、鎮守神として祀っていたものが、本尊は阿弥陀仏であったために廃社となったもの等、山形においても民衆の信仰上に大変動が起きました。
A平田篤胤の「復古神道」と関連するのではないか。
「復古神道」というのは、江戸後期の国学者・本居宣長(1730〜1801)によって唱えられ、平田篤胤(1776〜1843)によって発展大成させられた神道理論のことです。江戸時代は武士を中心とした身分社会でしたから、上下関係を重んじるこの社会を維持する根本思想とし儒教が思想の主流でした。神道も儒教思想の影響を受けて林羅山の理当心地神道や吉川惟足の吉川神道などの新しい流派が成立します。これに対して、『古事記』や『日本書紀』の神話と皇室崇拝に関わる神々を崇敬し、仏教も儒教も排し、地球上最上の神の子孫である天皇に絶対的忠誠を誓い、国体の尊厳を称揚しようとする神道理論が「国家神道」です。
2004年(平成16)に「国立歴史民俗博物館」において「明治維新と平田国学」と言う企画展が開催されましたが、その展示の裏話には、『篤胤が日露危機(注1)の中に身を置きつつ考えた、"西洋に対する日本のあるべき形"は、1853年のペリー来航により、全国から強く求められた。仏教の故地インド全域はすでに英国の植民地とされ、儒教の故地中国は、11年前、英国に大敗を喫していたのである(アヘン戦争(1840年~1842年))。将軍と大名、藩主と家臣、家臣と奉公人といった封建的主従関係よりも、天皇・朝廷を軸とした国の纏まりの方が大事なのだとする、平田国学の基本的な考え方は、この時期からは、従来の神職だけではない、各地の武士層から強い関心をもたれるようになり、武士層の入門者が増大する。展示される資料は、西郷隆盛も再三、江戸の気吹舎を訪れた事実を物語っている。(中略)そして、篤胤の嫡孫の延胤が、平田国学の政治的理論的指導者として成長していく。』と述べています。
このように平田国学で扱う「復古神道」は、古事記、日本書紀の神話と皇室崇拝に関わる神々を崇敬し天皇・朝廷を軸とする国家の纏まりを基本理念とするもので、明治政府はこの「復古神道」の理念に基づいて「神仏分離」を断行し、「神祇官」(注2)を設けて神道の国教化を推し進めました。篤胤は「儒仏無くとも道は明らかになる。」と主張したようですが、これは同時にそれまで武家の教学である儒学や朱子学、庶民の精神的指導の中核にあった仏教との敵対する要因も孕んでいたものと思われます。しかし、明治政府の「神道の国教化」施策は、欧米諸国の批判や国内における思想家、仏教徒、キリスト教徒による信仰自由論により間もなく挫折します。すると政府は、神社神道は国家の宗祀(国家が祀るべき公的施設)と位置付け、神社神道を他の諸宗教と異なる扱いにしました。神社神道は国家神道ですから、国家の保障・支援を受けます。しかし、その代わりに宗教でないとしましたので、独自の教義・教学を説くことは出来ませんでした。
前述の「国立歴史民俗博物館」の展示の裏話には、『1867年(慶応)12月9日の「王政復古の大号令」は、神代への復古、領主の横暴さが消え、残酷な刑罰が無くなり、「祭(まつり)」と「政(まつりごと)」が融合した緩やかな政治体制が実現され、農民が安寧に家業を営むことが出きる時代が到来すると、もろ手を挙げて歓迎されたのだが、権力を握った薩長二藩の武士が主力の政府は、尊王を掲げながら19世紀後半のヨーロッパの中央集権国家と官僚的軍隊組織の充実を目標に、年貢は削減することなく新たな課税対象を求めるなどの施策を推進した。』と述べています。
(注1)篤胤が28歳の時、遣日全権大使としてレザノフが長崎を訪れ通商を要求しますが,幕府はこれを拒絶します。しかし、1811年に海軍少佐ゴローニンが無断で国後島に上陸、幕吏によって逮捕される事件が起きました(ゴローニン事件)。
(注2)「神祇(じんぎ)」とは「天神地祇(てんじんちぎ)」からきており、「天の神」と「地の神」の意味です。1868年(慶応4)に設置された明治政府の官庁の一つで、神祇・祭祀をつかさどりました。1869年(明治2)には「太政官」の上位に置かれ官職のトップに据えられましたが、2年後の1871年(明治4)には「神祇官」は「神祇省」に格下げされ、「太政官」の所管となり、翌年には廃止となって、替わって「教部省」が置かれます。しかし、前述のように明治政府の「神道の国教化」施策は間もなく挫折し、1877年(明治10)には「教部省」も廃止となり、従来の取り扱いは「内務省」の「社寺局」が担当することになりました。
B物部守屋を天皇の忠臣とする考え方があったのではないか。
「復古神道」の理念からいえば、仏教を排する方向を進言した物部守屋は天皇の忠臣としてもよいとの考え方が生まれてきて当然と考えます。名分、つまり、立場・身分に応じて護らなければならない人として守り行うべき正しい道を貫いたのは、物部守屋の方ではなかったか、とするものです。石碑にある「すなわち、ここに大石碑を建て、守屋公の正義を後世に永く伝えて、邪道に迷い、大義をあやまることがないように、世に示すのである。」の箇所は、そのことを強く訴えたものと考えます。
C蘇我馬子を悪とする考え方があったのではないか。
仏教加護者であった蘇我の馬子は上記Bとは正反対の考え方が成り立ちます。
D建立時期(1896年(明治29))が日清戦争直前の国家主義が高揚した時期に当たる。
「日清戦争」は1894年(明治27)に起きました。明治政府は、朝鮮を自分の勢力下において、ここをロシアの防衛線にしようと考え、1876年(明治9)「日朝修好条規」を結ぶなど次第に勢力を朝鮮半島に広げていきました。しかし、やがて、朝鮮を属国と考えていた清国との間に摩擦を生じ1882年(明治15)の「壬午(じんご)事変」(興宣大院君賀清国へ連れ去られた事件)や1884年(明治17)の「甲申事変」(親日派の軍事クーデタ失敗)によって日本は影響力を失い、清国にとって代わられました。それでもなんとか、「朝鮮に派兵する際は、互いに通告しあう」という「天津条約」を1885年(明治18)に結ぶことに成功します。軍備拡張によって清国に実力が追いついた1990年代前半、日本は一戦して劣勢を挽回しようと機会を待ち、朝鮮半島で1894年(明治27)に民間信仰をもとにした宗教(東学)を信仰する団体を中心とした農民が、腐敗した役人の追放や外国人の排斥を目指して、朝鮮南部一帯で蜂起した「甲午農民戦争(私たちは「東学党の乱」と学びました。)が起こり、これの鎮圧のために朝鮮政府の要請で清国が派兵、日本も大軍を送り、遂に豊島沖(仁川港外)で両軍が激突します。これが「日清戦争」で、結果、日本が圧勝し、清国に朝鮮の独立を認めさせるとともに多額の賠償金と台湾・遼東半島を獲得しました。その後、ロシアが1895年(明治28)に、ドイツとフランスを誘って遼東半島を返還せよと日本に迫り(「三国干渉」)、結局、日本は返還するのですが、ロシアはこれを清国から借りたのです。国民はこれに激怒し、ロシア打倒を誓い合う国家主義の風潮が高揚します。やがてこれが1904年(明治37)の「日露戦争」へと歴史は展開してゆくことになります。
10 参考にした文献等
公開講座で用いた資料(『石に刻まれた日本の歴史』)のほかに主として参考にした文献は、次のようなものです。
1 『図説地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀』(坂本 勝、2009年1月15日、株式会社青春出版社)
2 『歴代天皇総覧乱』(笠原英彦、2001年11月25日初版、中央公論新社)
3 『やまがたの歴史』(山形市、昭和55年11月15日、大場印刷株式会社)
4 『早分かり日本史』(河合 敦、1997年12月20日、株式会社日本実業出版社)
5 『仏教と神道』(ひろ さちや、昭和62年10月10日、株式会社新潮社)
6 『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか、平成23年10月1日発行、株式会社新潮社)
7 『郷土館だより83、平成20年9月1日』、(「千歳山大仏堂」:滝山地区郷土史研究会長佐藤 久)
8 山形県立図書館・文献目録(インターネット)
9 国立歴史民族博物館・ホームページ
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