64回(昭和32年卒) 渡部 功 |
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「家禄相当額に對し不足分御給與願」について(2の1)
1 はじめに
以前、「知行宛行状」について調べたことを投稿しましたが、明治維新以後、旧藩士への家禄は米の支給から金禄に代り、やがてそれも「金禄公債証書」の発行へと代わりました。しかし、その「禄高」の「金禄」への換算過程で錯誤が生じたりして、混乱が生じました。次に示す請願書は、この錯誤により生じた金禄公債額の原状回復を旧庄内藩士が法律に基づき政府に願った書面です。ただ、残念ながら別紙甲及び乙号証拠書類が見当たらないので、現在の記載家禄額とそれに対する不足額がいかほどであったのかは判明しませんが、今回はこの「金禄公債証書」について調べた結果を投稿します。
家禄相当額に對し不足ノ分御給與願
私儀
山形懸元大泉藩士族ニシテ、明治3年9月10日、太政官御布告藩制御施行以来家禄ヲ有シタル者ニ之有候(これありそうろう)。明治4年7月24日禄高ニ関スル太政官御布告ニ依リ旧藩ヨリ差出セリ禄高帳ハ、別紙理由書之通其証査全ク(まったく)錯誤ニ出テ、其禄高ニ基キ禄公債証書下賜相成候。儀ニシテ別紙甲号之通リ家禄相当高ニ對シテ御給與未満額有之候。徑(ただちに)其未満額ヲ昨30年法律第50号ニ依り御給與被成下度(なしくだされたく)、別紙乙号証拠書類並新旧戸籍謄本相添候段奉願候也(ねがいたてまつりそうろうなり)。
明治31年5月28日 相 良 正 吉
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2 士族、卒族、平民 俸禄制度の崩壊
幕藩体制における「蔵米知行」に基づく「俸禄制度」は、明治維新後も「家禄」として引き継がれ、士族等に支給されていました。また、維新功労者に対する「賞典禄」も設けられ、これの支給は、74万5,750石、20万3,376両の支出となり、華族・士族に対する家禄支給は政府の歳出の30パーセントを占めるに至りました。この「華族」とは、1869(明治2)年から1947(昭和22)年まで存在した近代日本の「貴族階級」のことをいい、公家に由来する華族を「公家華族」、江戸時代の藩主に由来するものを「大名華族」、国家への勲功により華族に加えられたものを「新華族(勲功華族)」、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」と区別することがあります。そして、旧武士は、士分であったものは「士族」に、足軽身分であったものは、「卒族」に分類されました。その後、卒族が廃止されたのち、卒族のうち上格の者は「士族」に、その他の者は農工商と同じく「平民」と表記され、その表記制度は1948(昭和23)年まで残ったのです。
3 藩制の布告と旧禄の削減
文頭に掲げた請願文中、「・・・明治3年9月10日太政官御布告藩制法施行以来・・・」とあるのは、次のような事実があったことを述べています。
1869(明治2)年、諸藩の土地と領民を朝廷に返還することを政府が命じた「版
籍奉還」に続いて、さらに政府の諸藩に対する統制を強化する措置として、1870(明治3)年9月10日太政官布告第 579号による「藩制」の布告がありました。その内容は@15万石以上を「大藩」、5万石以上を「中藩」、5万石未満を「小藩」とする、A知事のほか、大参事(2名)、権大参事(設置してもよいし、設置しなくともよい。)、小参事(5名)、権小参事(設置してもよいし、設置しなくともよい。ただし、小藩は設置しないこと。)などの新しい職制を設けました。更に、B重要なこととしては、藩財政の改革が行われたことで、藩の貢租実収高からその100分の10は知事の家禄、残高の100分の81を公庁費(行政費)と藩士の家禄支給に、残りの100分の9を陸海軍費とし、かつ、陸海軍費の半額は政府へ上納し、残りは藩兵の費用とすることになりました。つまり藩財政の一部が政府に吸い上げられることになったのです。
当然、各藩の藩士の禄も知事の家禄に準じて改革すべきことが命じられ、旧禄の削減を受けました。この様なことで、各藩において旧家臣の帰農出願者に約6カ年分の禄を一時賜金として与え、士族の減少化が図られたのです。
このことに関連して、ワッパ騒動義民顕彰会事務局長星野正紘さん(61回)
から頂戴した資料・『萬世間聞相場記』(新形村・井上繁矩著、資料所蔵:中京大学安部英樹教授、解読:ワッパ騒動義民顕彰会、2010年4月25日ワッパ騒動義民顕彰会発行)という日記の1875(明治8)年亥旧正月のところに次のような記述があります(現代語訳)。
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・・・・・此の節、禄を返す願いが甚だ多い。これは士族中に自分の家禄を返上し、6年分の家禄代金を資金にして、田畑・谷地・川原・山林などこれまで無年貢の官地へ、セリにかけ地面を安く見積もり、相応の値段から半減して払い下げ、家の財産とした。田畑は一人分一町歩、谷地は三町、山林五町歩である。右のことについては、官地のある村々は大いに難渋した。
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なお、この記述の最後のくだりに「右のことについては、官地のある村々は大いに難渋した。」とありますが、これは、「官地」は元来藩の所有地であり、藩民は一定の制限を受けながらもその利用は許されていたのですが、それが官地として政府に引き継がれ、またその一部が士族に与えられてゆく時、当然に農民の今までの土地利用権は奪われることになります。このことは山林原野を利用して農耕生活をなし得た農民にとって、それは大打撃でした。
この『萬世間聞相場記』は、1833(天保4)年から1890(明治23)年まで、旧新形村の井上繁矩が書き続けた庄内の米相場の記録ですが、その間に丁度「ワッパ騒動」が起こり、大宝寺組新形村の農民の立場から見た「ワッパ騒動」にまつわる記録なども見られますが、ここでは省略します。
4 廃藩置県後の庄内の情勢
この請願で「大泉藩」とありますが、これは、庄内は、戊辰戦争で敗れ、領土没収のうえ謹慎を命じられた後、改めて12万石を下賜され、会津、磐城への転封を献金で免れて庄内復帰を認められ、1869(明治2)年に藩名を「大泉藩」と改称します。そして、1871(明治4)年7月の廃藩置県で大泉藩はそのまま大泉県となり、続いて同年11月、庄内地方全体を統治する第二次酒田県に内包されます。酒田県庁は酒田に置かれ,県政は松平親懐・菅実秀の下に、県官吏はすべて旧庄内藩士族が握りました。そして、「ワッパ事件」を誘発したような中央政府の指令なども無視するような県政が行われました。このような背景の一つには、西郷隆盛と旧庄内藩士との親交があったことが考えられますが、最大の理由は、飽海郡下で発生した「天狗騒動」を政府直轄の第一次酒田県が鎮圧できず、この混乱を解決するために強固な士族集団の軍事力・統治力を必要としたためと考えられています。
第一次酒田県となった最上川の北方地域の中でも荒瀬・平田・遊佐の地域には、旧天領で貢租の一部を石代納としていたところもありましたが、酒田県は、すべて現物納制をとったことと、この1869(明治2)年は凶作で、農民の生活はこれまで以上に悪化していました。そこで三郷農民は天狗党を組織して、村ごとに資金を集め、酒田県に18ケ状の及ぶ要求を差しだしました。 その主たる点は、@旧藩以来の雑税の免除、A支配機構及び諸帳簿の公開による運営の民主化、B種夫食(たねふじき)貸米の利息を引き下げることなどでした。そのほか荒瀬・遊佐からは、戊辰戦争時の軍掛物(夜具、かや、枕など)の返還要求、平田からは年貢の日延べと石代納(3分の2)を要求し、郷によって要求の目標に違いも見られました。嘆願書の提出と共に酒田山王社に三郷の農民が大挙打ち寄せ、また、各地で集会が持たれ、特に大原県令が酒田36人衆の一人であった問屋頭長浜五郎吉を逮捕するや、出牢願いの波状攻撃を行うとともに、一条八幡宮(旧飽海郡八幡町)には4千人が集まり気勢を上げたといいます(1870(明治3)年2月15日)。こうした農民の要求と騒動の中で、1870(明治3)年9月には大原酒田県令が罷免され、代わった前山形県坊城(ぼうじょう)県令もこの問題で1871(明治4)8月免官となりました。しかし、騒動は一層激化し1872(明治5)年1月になって川北三郷5千人余の集会がもたれましたが、遂に酒田県の出兵となり鎮圧されました。この一連の騒動を「天狗騒動」といいます。一方、1873(明治6)年末から田川郡下の農民による石代納の要求運動が起こりましたが、これがいわゆる「ワッパ騒動」の始まりですが、これについては以前投稿しましたので、ごらんください。
このように明治初期の庄内は政情定まらず混沌とした状態でした。なお、明治維新後、現在の山形県が誕生するまでの経緯を纏めると次の表のようになります(「山形県の歴史」(誉田慶恩・横山昭男著、山川出版)より。)。
年 月 日 |
事 項 |
1869(明治2)年6月24日 |
・米沢藩と米沢新田藩が米沢藩に
・松山藩が松嶺藩に |
1869(明治2)年7月20日 |
・柴橋・酒田・尾花沢の各民政局、長瀞藩が統合されて酒田県(第一次)に |
1869(明治2)年9月29日 |
・荘内藩が大泉藩に改名 |
1870(明治3)年9月28日 |
・山形藩、朝日山藩分領、佐倉藩分領、館林藩分領、棚名倉藩分領、館藩分領、高力領、酒田県(第一次)が山形県(第一次)に
・酒田県(第一次)のうち旧酒田民政局分が山形県出張所へ |
1871(明治4)年7月14日 |
・大泉藩・松嶺藩がそれぞれ大泉県・松嶺県に
・米沢藩・上山藩・天童藩・新庄藩がそれぞれ県に |
1871(明治4)年11月2日 |
・米沢県が置賜県に
・山形県・天童県・新庄県、山形県(第一次)が統合されて山形県(第二次)に
・山形県出張所・大泉県・松嶺県が統合されて酒田県(第二次)に
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1875(明治8)年8月31日 |
酒田県(第二次)が鶴岡県と改名 |
1876(明治9)年8月21日 |
・置賜県・山形県(第二次)・酒田県(第二次)・鶴岡県が統合されて山形県が誕生 |
5 「金禄公債証書」の発行
さて、明治政府は、中央集権化を行ううえでも、殖産興業を推進するうえでも、更には、軍制改革(富国強兵)をすすめるうえでも莫大な財源が必要であり、財政上大きな部分を占める旧武士階級の身分的特権を廃止すべきものと考え始めました。そして、1871(明治4)年7月14日(8月29日)には前述の通り「廃藩置県」が実行され、旧武士階級は「士族」と改められ、この7月14日(8月29日)付で「禄高に関する太政官布告」(禄高人別帳の提出)がなされ、旧藩から政府に対して「禄高人別帳」が提出されて、士族は政府が所管することになり、士族に対する「家禄」は政府(大蔵省)からの支給となりました。このような変革の最中、禄高人別帳の提出の際に、担当官吏の錯誤により禄高に誤りがあるものが続出することになりました。
一方、1873(明治6)年の政変以降、軍事資金とするための家禄に対する課税、事業起業或いは帰農のための就業資金確保のための家禄の奉還制度が議論されるようになり、ついに、1875(明治8)年9月7日太政官布告第138号によって「家禄」の米支給を、各地方の「3カ年の平均相場」に換算して貨幣で支給する方法に改め(「金禄」に切り替えられ)、翌年8月5日には、太政官布告第 108号によって「禄制度の全面廃止」が決まり、同時に「金禄公債証書発行条例」が公布され、華族や士族に与えられていた家禄と維新功労者に付与されていた賞典禄を合わせたところの「秩禄受給者」の「禄高」が1875(明治8)年当時の府県ごとの「貢納石代相場」に応じた金額に換算した「金禄公債」という「国債証券」を発行下付する制度になり、翌年から「金禄公債証書」の発行が強制的に実施されたのです。
この公債は、発行の年(1877年)から5年間据え置き、6年目から抽選で償還を始めて、通年30カ年で償還することを政府は考えていました。公債の利率は、5分、6分、7分、1割に分かれ、証書は、5円、10円、25円、50円、100円、300円、500円、1,000円、5,000円の9種類が発行され、これによって、政府歳入の4分の1から3分の1を占めていた家禄支出は解消し、近代化を進めようとする政府の財政を助けることになったのです。旧庄内藩でも旧家臣団を維持する家禄は、藩(県)の歳出の約60パーセントに達し、その財政を圧迫しました。前述の『萬世間聞相場記』の1878(明治11)年寅年の項には、
・・・9月初め、士族に金禄公債証書を渡すというお達しがあった。10月中旬まで渡った。米の値段が上がった。・・・ |
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と、旧庄内藩士族に対し9月初めに「金禄公債証書」を渡すというお達しがあった旨の記述があります。 |
2013年1月17日 |
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