・・・さて、去年冬から鶴岡に於いて国立銀行の設立を願い上げていたのが許可された。その発起人は黒川市郎殿、荒町の斎藤五右衛門・齋藤安右衛門・三谷正右衛門、一日市の長井善兵衛・美濃谷喜兵衛・齋藤安右衛門野七名である。会社は三日町の田林の家である。
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とあって、発起人であり、同行設立とともに初代頭取に就任した石原重雄の名は出ていません。この日記に出てくる黒川市郎は、黒川友恭のことで、彼は設立時取締役で、1880(明治13)年1月、石原重雄の後を受けて第二代頭取に推された人であることが判明しました(『庄内人名事典』)。
9 「家禄賞典禄処分法」による「金禄公債証書」の不合理是正
前述のように「家禄制度」制度は「金禄公債」となりましたが、明治の末になると、「禄高人別帳」作成時の錯誤や金禄元高を定める際の換算金額に関して意義を唱えるものが続出し、結果、「家禄賞典禄処分法」(1897(明治30)年10月29日法律第50号)及び「家禄賞典禄処分法施行法」(1899(明治33)年法律第84号)に基づき不合理是正の請願が行われることになりました。文頭にしめした資料がその例で、旧庄内藩士の相良家と所縁のある山形市在住の小関家に残されていたものです。
10 「家禄賞典禄処分法」のその後
前述の相良正吉も家禄相当額に対し不足の分があったので、前回紹介したような請願を行ったものです。そこで、政府は大蔵省に「臨時秩禄処分調査委員会」と「臨時秩禄課」置き、審査に当たることになりました。寄せられた不足額・給与請願は、11万6,763件・29万3,955人分で、請求額9,152万円で、士族の人口が約40万戸・150万人であったことを考えると相当な数といえます。しかし、処分の適用が認定されたのは、わずか108件・3,906人に過ぎず、支給された公債証書は、37万4,921円のみでした。1905(明治38)年11月10日に審査が終了したのですが、しかし、不採用の決定を下された者の多くはあきらめずに運動を継続し、或いは1年間に限定された出願期間内に証拠書類が出来ないものもおったため、1909(明治42)年に法律第21号によって「家禄賞典禄処分法」に関係する事件は行政裁判所に訴え出ることが可能になり、その後も訴訟が長く繰り広げられました。その中には勝訴した例もあったようです。以後、1919(大正8)年5月、「臨時処分調査委員会」が設けられ大蔵省理財局が事務を扱うことになりました。
なお、1936(昭和11)年6月現在で大蔵省が集計したところによりますと、「家禄賞典禄処分法」及び関連法規によって2万2,637人に対して533万391円が給与されたとあります。これらの法律は1948(昭和23)年に廃止されたのですが、形式的には「秩禄受給者」の処分はこの時点まで続いたことになります(「帝国議会における秩禄処分問題―家禄賞典処分法制定をめぐって」(落合広樹、人文学報(1994)73、177〜199頁)。
以上の施策はいわば無期限の家禄を有期公債とするものであり、前述の通り1876(明治9)年8月5日の「金禄公債証書発行条例」の公布により、旧支配身分の成形の基礎となっていた家禄を5〜14年分に当たる公債にかえて全廃し、よって旧武士階級は国家に対する経済上の特権を永久に失い、一時賜金、秩禄公債を資本として帰農した一部士族は「土地低価払下」の特典によって地方の中小地主になった者もいたのですが、帰商した一部士族は討ち続く貧困と「士族の商法」によってほとんどの公債は急速に高利貸し資本家に吸収され、無産者、下級奉給者となり下がってしまったのです。
先に紹介した相良正吉の場合、請願審査をパスして本人が主張する不足額が給与されたか、どうかについては、その後の資料が存在しませんので残念ながらその仔細は不明です。
11 おわりに
以上を纏めるに当たっては、『明治の士族』(高橋哲夫、昭和55年12月15日、歴史春秋社)、『庄内藩』(斎藤正一著、吉川弘文館、平成2年10月10日第一刷発行)、『シリーズ藩物語・庄内藩』(本間勝喜著、現代書館、2009年9月20日第一版第一刷発行)、『歴史シリーズ・山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男著、山川出版社、昭和45年9月1日1版1刷発行)、『山形の百年』(岩本由輝緒、山川出版社、1985年8月30日1版1刷発行)、『新編庄内人名事典』(大瀬欽哉監修、庄内人名事典刊行会、昭和61年11月27日発行)、「図説鶴岡のあゆみ」(鶴岡市史編纂会、鶴岡市発行、2011年3月31日)、鶴岡市『萬世見聞相場記』(新形村・井上繁炬著、ワッパ騒動義民顕彰会発行、2010年4月25日)、『帝国議会における秩禄処分問題―家禄賞典処分法制定をめぐって』(落合広樹、人文学報(1994)73、177〜199頁)、『沢栄一による士族の人材開発―七十七銀行創立木の事例―、嘉悦大学卒業論文』、フリー百科事典『Wikipedia』などを参照にしたほか、山形市在住小関朋子さんには、請願書の原本の貸与を受け、山形県立博物館民族部門専門嘱託野口一雄先生には古文書の解読、ワッパ騒動義民顕彰会事務局長星野正紘さんには資料を頂戴するなど大なる御支援をいただきました。ここに厚くお礼を申し上げる次第です。
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