「家禄相当額に對し不足分御給與願」について(2の2)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 「家禄相当額に對し不足分御給與願」について(2の2)
6 「金禄公債証書」制度による士族、卒族の困窮、反乱
 1871年(明治4)には「廃藩置県」となり、翌1872年(明治5)には「徴兵令」が公布されます。この「徴兵令」によって国民皆兵となり、それまでの「武士」という特定武力集団の存在意義は完全に消失することになりました。そのうえ「版籍奉還」・「廃藩置県」の断行によって士族は旧来の家禄を失いました。最終的には「金禄公債」を交付ということになったのですが、反面、政府予算の3分の1を占めていた家禄支出は解消となり、近代化を進める政府財政をおおいに助けることになりました。
 ところで、「金禄公債」によって下級武士に充てられた金利の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の3分の1であったとされ、大部分の士族は、一時恩賜金の現金と「金禄公債」を安値でたたき売って資本金とし、慣れない商工業に活路を見出す羽目になりました。当初この公債は売却禁止でしたが、1878(明治10)年9月にはその禁が解かれました。しかし、その多くは「士族の商法」といわれたように大部分が失敗するのですが、ちなみに、1883(明治17)年の統計によりますと、全士族の3分の2は没落士族であったといいます。この事に関して庄内の事情について『図説鶴岡のあゆみ』には次のような記述があります(132〜133ページ)。
「金禄公債」の利子を年6パーセントから8パーセントとすると、旧庄内藩旧禄400石の士族は、年利子約96円・月収入約8円、旧禄150石の士族は、年利子約62円・月収入5円余、卒族(給人)は年利子21円・月収入2円未満となる。その当時の米価は、1升当たり、3,4銭で、高禄の士族はともかく、下級士族や卒族2,500人の家計は利子収入だけの生活は不可能であった。藩・県役人に転向した人は約450人のみで、しかも、その内300人は、年給米3石以下で、村役場雇、小学校教員も薄給であった。多くの士族、卒族は、日雇いや人力車夫、荷車引き、大工、提灯張り、桶師、菓子職、魚商、豆腐屋などの慣れない仕事に転じたが、結局多くの人々は金禄証書を額面の70パーセントで手放したといわれる。更に、家屋敷に地租が課せられ、その維持が困難となって、売り払う者が多くなり、馬場町、家中新町、鳥居町、与力町、番田などでも空屋敷が増え、学校や役場用地、畑地と化していった。
 また、1876年(明治9)3月に「武士の魂」といわれる刀を奪う「廃刀令」が公布されましたが、これに関連して「鶴ケ岡の兵隊士族」と題する明治9年4月30日付け朝野新聞記事を『明治の士族』(高橋哲夫著、昭和5512月15日発行、歴史春秋社)で見つけましたので紹介しておきます。
 「鶴ケ岡県下にては、兵隊と称する士族ありて、常に割羽織(筒袖)襠、高袴をはき両刀を帯して居たる処、帯刀禁止の令ありてより拠(よんどころ)なく、例の袴羽織に練木を帯して歩くも有り。或いは五尺より六尺許(ばか)りもある丸き棒を携へてゆくものあるよし。此頃同県より出京した人の咄(はな)し。
 このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、その誇りも痛く傷付けられ、1874年(明治7)の「佐賀の乱」をはじめ「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」などの士族の乱が勃発しますが、徴兵制度の確立により、いずれも政府軍の前にあっけなく敗れています。そうして、士族の反乱は、1877年(明治10)の西南戦争でその終焉を迎えます。
7 松ケ岡開墾事業
 このような状況の中、政府にとってこの失業士族を救済することが大きな政治課題となり、いわゆる「士族授産」の施策はこのような情勢から生まれたものです。庄内藩では、失業士族授産のため、士族による集団開墾事業として「松ケ岡開墾事業」が1872(明治5)年4月に始められました。それは、西郷隆盛と相談し、彼の賛同と助言を得て始められ、開墾により養蚕産業を盛んにして士族の生活の途を拓くとともに、藩伝統の報恩・徳義精神の再興をはかるものでした。この一大業は「新徴組」・「新整組」を主とする士卒族脱走事件等がおきましたが、1872年(明治5)4月の伊勢横内・斉藤河原・赤川の河原地約3万坪の試開墾を皮切りに、1873年(明治5)6月の「後田山開墾」の準備着手、同年8月の本開墾着手に至り、同年10月、開墾予定地106町歩余の開墾は完了しました。なお、後田山の開墾に続いて高寺山・馬渡山・黒川山などの開墾にも着手していて、1873(明治6)年1月に204町歩余の開墾を完了しています。。
8 第67国立銀行(現荘内銀行の源流)の誕生
 一方、この公債を出資して国立銀行を創設することが認められていましたので、各地に士族の手による国立銀行が生まれました。この場合の国立銀行は「国法によって立てられた銀行」と言う意味で、民間資本が設立したものです。
 山形県では、1878(明治11)年から1879(明治12)年にかけて、鶴岡の第67国立銀行、酒田の第72国立銀行、山形の第81国立銀行、米沢の第125国立銀行、山形の第140国立銀行と計五銀行が設立されました。
 第67国立銀行は、1877(明治10)年12月に旧庄内藩士族石原重雄、黒川友恭や鶴岡の商人三谷正右衛門、長井善兵衛、斎藤五右衛門等の手で出願され、1878(明治11)年9月、資本金8万円で設立認可を受け、11月25日から鶴岡市三日町で営業を開始したもので、初代頭取は石原重雄でした。その後、増資、寒河江、小樽への支店開設、山形の第140国立銀行を合併して山形支店としましたが、第140銀行の不良債権の発見や松方財政による不況等もあって山形、小樽の支店の閉鎖と減資等があり、この後、1896(明治29)年3月公布の「営業満期国立銀行処分法」に基づき、1898(明治31)年9月、営業満期を迎え、資本金25万円の株式会社67銀行に転換し、現在の荘内銀行の源流の一つになりました(『山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男著、山川出版)、『庄内人名事典』)。このことについて、前述の『萬世間聞相場記』の「明治11年寅年」の項を見ると、
 ・・・さて、去年冬から鶴岡に於いて国立銀行の設立を願い上げていたのが許可された。その発起人は黒川市郎殿、荒町の斎藤五右衛門・齋藤安右衛門・三谷正右衛門、一日市の長井善兵衛・美濃谷喜兵衛・齋藤安右衛門野七名である。会社は三日町の田林の家である。       
とあって、発起人であり、同行設立とともに初代頭取に就任した石原重雄の名は出ていません。この日記に出てくる黒川市郎は、黒川友恭のことで、彼は設立時取締役で、1880(明治13)年1月、石原重雄の後を受けて第二代頭取に推された人であることが判明しました(『庄内人名事典』)。
9 「家禄賞典禄処分法」による「金禄公債証書」の不合理是正
 前述のように「家禄制度」制度は「金禄公債」となりましたが、明治の末になると、「禄高人別帳」作成時の錯誤や金禄元高を定める際の換算金額に関して意義を唱えるものが続出し、結果、「家禄賞典禄処分法」(1897(明治30)年10月29日法律第50号)及び「家禄賞典禄処分法施行法」(1899(明治33)年法律第84号)に基づき不合理是正の請願が行われることになりました。文頭にしめした資料がその例で、旧庄内藩士の相良家と所縁のある山形市在住の小関家に残されていたものです。
10 「家禄賞典禄処分法」のその後
 前述の相良正吉も家禄相当額に対し不足の分があったので、前回紹介したような請願を行ったものです。そこで、政府は大蔵省に「臨時秩禄処分調査委員会」と「臨時秩禄課」置き、審査に当たることになりました。寄せられた不足額・給与請願は、11万6,763件・29万3,955人分で、請求額9,152万円で、士族の人口が約40万戸・150万人であったことを考えると相当な数といえます。しかし、処分の適用が認定されたのは、わずか108件・3,906人に過ぎず、支給された公債証書は、37万4,921円のみでした。1905(明治38)年11月10日に審査が終了したのですが、しかし、不採用の決定を下された者の多くはあきらめずに運動を継続し、或いは1年間に限定された出願期間内に証拠書類が出来ないものもおったため、1909(明治42)年に法律第21号によって「家禄賞典禄処分法」に関係する事件は行政裁判所に訴え出ることが可能になり、その後も訴訟が長く繰り広げられました。その中には勝訴した例もあったようです。以後、1919(大正8)年5月、「臨時処分調査委員会」が設けられ大蔵省理財局が事務を扱うことになりました。
 なお、1936(昭和11)年6月現在で大蔵省が集計したところによりますと、「家禄賞典禄処分法」及び関連法規によって2万2,637人に対して533万391円が給与されたとあります。これらの法律は1948(昭和23)年に廃止されたのですが、形式的には「秩禄受給者」の処分はこの時点まで続いたことになります(「帝国議会における秩禄処分問題―家禄賞典処分法制定をめぐって」(落合広樹、人文学報(1994)73、177〜199頁)。
 以上の施策はいわば無期限の家禄を有期公債とするものであり、前述の通り1876(明治9)年8月5日の「金禄公債証書発行条例」の公布により、旧支配身分の成形の基礎となっていた家禄を5〜14年分に当たる公債にかえて全廃し、よって旧武士階級は国家に対する経済上の特権を永久に失い、一時賜金、秩禄公債を資本として帰農した一部士族は「土地低価払下」の特典によって地方の中小地主になった者もいたのですが、帰商した一部士族は討ち続く貧困と「士族の商法」によってほとんどの公債は急速に高利貸し資本家に吸収され、無産者、下級奉給者となり下がってしまったのです。  先に紹介した相良正吉の場合、請願審査をパスして本人が主張する不足額が給与されたか、どうかについては、その後の資料が存在しませんので残念ながらその仔細は不明です。
11 おわりに
 以上を纏めるに当たっては、『明治の士族』(高橋哲夫、昭和55年12月15日、歴史春秋社)、『庄内藩』(斎藤正一著、吉川弘文館、平成2年10月10日第一刷発行)、『シリーズ藩物語・庄内藩』(本間勝喜著、現代書館、2009年9月20日第一版第一刷発行)、『歴史シリーズ・山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男著、山川出版社、昭和45年9月1日1版1刷発行)、『山形の百年』(岩本由輝緒、山川出版社、1985年8月30日1版1刷発行)、『新編庄内人名事典』(大瀬欽哉監修、庄内人名事典刊行会、昭和61年11月27日発行)、「図説鶴岡のあゆみ」(鶴岡市史編纂会、鶴岡市発行、2011年3月31日)、鶴岡市『萬世見聞相場記』(新形村・井上繁炬著、ワッパ騒動義民顕彰会発行、2010年4月25日)、『帝国議会における秩禄処分問題―家禄賞典処分法制定をめぐって』(落合広樹、人文学報(1994)73、177〜199頁)、『沢栄一による士族の人材開発―七十七銀行創立木の事例―、嘉悦大学卒業論文』、フリー百科事典『Wikipedia』などを参照にしたほか、山形市在住小関朋子さんには、請願書の原本の貸与を受け、山形県立博物館民族部門専門嘱託野口一雄先生には古文書の解読、ワッパ騒動義民顕彰会事務局長星野正紘さんには資料を頂戴するなど大なる御支援をいただきました。ここに厚くお礼を申し上げる次第です。
2013年2月23日